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2017/08/19

雨の向こうに入道雲を夢想する今日この頃、いかがお過ごしだろうか。

さて、一週間前に頒布された東方天空璋について思うところをつらねてみたい。
まずは以下のように、ノーマルとエキストラをクリアした報告から。
天空璋ノーマルクリア2
天空璋エキストラクリア2


この天空璋、ノーマル全員ノーコンクリア、エキストラ全員クリアとも、歴代で最易と思えるほど難易度が低い。
過去にも特定の少女や装備では易しいということがあったが、
全体的にここまで簡単なゲームはかつてなかったのではなかろうか。
なにより、季節開放が強力だ。
ただ、神霊廟のトランスほどには強力になりすぎず、ギリギリで壊れ性能にはなっていない。
(全体的には弾幕の難易度自体が低いので、神霊廟よりもさらに易しい)
また、プレイ側の少女が、どのサブ季節も選べるため、4人のキャラの個性がそれほど目立たない。
むしろサブ季節選択がプレイスタイルを決定するようになっている。
端的に言って、初心者に優しい作品といえそうだ。

東方天空璋について避けられない話題は、6ボス=Exボスの摩多羅 隠岐奈(またら おきな)の元ネタ、
摩多羅神についてだ。
事前に天空璋のジャケットから、川村湊『闇の摩多羅神 変幻する異神の謎を追う』が種本ではないか、
という推測が界隈に流れていたことを知っている人も多いだろう。
私もコミケ前に『闇の摩多羅神』を読了し、これが5割方来るだろう、という予想だった。
この手の新作予想はわからないところで予想するのが面白いのであって、
ネタの割れた今作、東方天空璋は新作予想するに値しない作品となってしまったのは残念である。
(余談だが、twitterの方で4面ボスには笠地蔵が来ると予想し、見事的中させられたのは個人的に嬉しかった)

結果的には、(大方の予想通り)川村湊『闇の摩多羅神 変幻する異神の謎を追う』がドンピシャであった。
ドンピシャという言葉でも足りないかもしれない。
ZUN氏は、1ボス、5ボス、6ボス=Exボスのキャラ作りをこの本にほぼ依存していることが強く推測される状況である。
もはや「東方天空璋を考察するなら、『闇の摩多羅神』を読んでいないと話にならない」状況と言っても過言でない。
だから、私はブログ記事を書く気もあまり起きなかった。
「天空璋? 闇の摩多羅神を図書館ででも探して読めばいいよ」
と一言で済む雰囲気だからだ。
本書を読んでない人は、「そこまでは言い過ぎなんじゃないか」
「摩多羅神を題材にした書籍は他にもたくさんあるんじゃないか」
と言われるかも知れないが、まずは一読することを進める。
本当に、『闇の摩多羅神』の占めるネタのウェイトがあまりにも大きいのだ。

以下、ほんの一部を挙げるだけでも、
1面ボスのエタニティラルバが「常夜(ママ)神」というネタは、
『闇の摩多羅神』における「常世神」と秦河勝の関係のネタであるし、
5面ボスの爾子田里乃(にしだ さとの)、丁礼田舞(ていれいだ まい)の「天狗怖し」(同書では「天狗怖シ」)や、
「童子は狂気を跳ね踊る」(書籍中の「跳ね踊り」)、
6面ボスの摩多羅隠岐奈という、摩多羅神・翁という名前の由来(同書では猿楽の翁面=摩多羅神としている)
隠岐奈のセリフにおける「烏滸の沙汰」や、「秘神マターラ」という曲名の由来、
「秘儀『弾幕の玉繭』」(同書には、常世神信仰を率いた土着民と対立する養蚕の神の話が出てくる)や
「秘儀『穢那の火』」(同書には、摩多羅神=穢那天神(えなてんじん)=胞衣(えな)のタブーを浄化する火神
との話が出てくる)など、
数々のスペルカードの元ネタと、それこそ枚挙にいとまがない。
過去にも、例えば紺珠伝の純狐は『アジア女神大全』がネタ元だったり、
星蓮船が信貴山縁起絵巻が元ネタだったり、
さらに遡れば明石散人らの書籍の影響を強く感じる作品があったり、ということはあった。
しかし、東方天空璋のような、単一の書籍に極めて依存している作品というのは、極めて異例ではなかろうか。
(おまけに天空璋は、東方Projectの6ステージSTG初となる、
ラスボスとExボスが同じという、作者ZUNの「省エネ」が弾けた作品で、新しいエキストラボスが登場しないために、
ますます摩多羅神という元ネタに視点が集中してしまうきらいもある。)

もし、天空璋のジャケットのシルエットが、従来作品と同じように「ボス一人のみ」であれば、
摩多羅という名前が挙がるかもしれないが、おそらく誰も(私を含めて)
『闇の摩多羅神』という種本には辿りつけなかっただろう。
あれはZUN氏のうっかりミスだったのか、それとも、種本を探してみろ、という挑発だったのか、
あるいは、画像検索などの探索を過小評価し、頒布までばれないと高を括っていたのかもしれない。
真相はわからない。
ただ、あの早すぎるネタばらしが、新作の衝撃を抑え込み、ファンの興を少なからず削いでしまったのは残念である。

それにしても腑に落ちないことがある。
不思議なことに、ジャケットのシルエットの3人並んだ姿は、ゲーム内では再現されないのである。
Exボス摩多羅隠岐奈の立ち絵(6ボスの立ち絵というか座り絵ではない)、
両脇に爾子田里乃、丁礼田舞が並んでいるのだが、
エキストラゲーム本編では、ついに3人が並ぶことがないのだ。
あの並びは、『闇の摩多羅神』の表紙絵にもなっている、
「摩多羅神二童子図」(栃木県日光の輪王寺)を強く意識したシルエットである。
当初の予定では、エキストラステージの最終局面で2童子が登場し、ジャケット絵を再現するはずだったのが、
なんらかの事情で叶わなかったのか……。

ちなみに、もちろん『闇の摩多羅神』以外にも多数の雑多なネタが散りばめられている。
例えば、矢田寺成美(やたでら なるみ)のテーマ曲「魔法の笠地蔵」の曲コメント
「数え切れないくらい風変りな地蔵が全国に広まっています」は、
ZUN氏の蔵書で確認されている「ニッポン神さま図鑑」の味噌地蔵や縛られ地蔵などを念頭に置いた発言だろうし、
「秘神マターラ」の曲名に、真・女神転生II他に登場する「秘神マーラ」を思わせたい、というネタなのも間違いないだろう。
私が言いたいのは、全体に占める比重が『闇の摩多羅神』に集中しているということである。

なんにせよ、『闇の摩多羅神』については、とにかく読んでもらうのが早い。

さて、東方天空璋のもう一つの特徴は、セルフオマージュに徹していて、
「どこかで見たような、聞いたようなもの」で構成されている作品だということだ。
これは、プレイした人にはわかると思うが、
ネクロファンタジアに似た曲だったり、ユキ・マイを思わせる5ボスだったり、
四季異変や笠地蔵は花映塚を思わせたり、エキストラのサブ装備は地霊殿のパチュリーの土符だったり、
細かいところを挙げるともうキリがないくらいである。

テキストによれば、原作者ZUN氏の身内に不幸があったそうで、
工数を削減しなければならない切実な事情があったのかもしれない。

東方天空璋の特徴をまとめると以下のようになる。
・特定の書籍を種本にして1、5、6、Exボスを構成した。
・6ボス=Exボスというキャラの少なさ
・Exステージのサブ装備を一つに限定
・作曲、弾幕、キャラそのほかのセルフオマージュの多用
ここから天空璋は原作者の極限までの「省エネ」と「手癖」で作られた作品だと言えよう。

その上で、セルフオマージュの中でも積極的な意義を見いだせるのは、
「地霊殿でうまくいかなかった後方射撃オプション=土符タイプへの再挑戦」ではないか。
直前にFebriで明かされた茨歌仙がウナギの話だったように、
「土用」というのが天空璋のアクセントになっている。
ここで、パチュリーがかつて魔理沙に使わせた「土符」と同じようなオプションを、
「後戸を塞ぐ」武器として再登場させたのは、実に上手い。
(余談だが、オマケテキストの矢田寺成美の文で、魔理沙の後方オプションを提供したのは成美だと明言されている。
つまりパチュリーではないと、ZUN氏が強調しているわけだが、ここのこだわりも興味深い)
天空璋のエキストラを後方射撃主体でプレイさせるという発想については、
まさか東方地霊殿の頃からこの展開を考えていたとは流石に思えない。
摩多羅神=後戸の神というストーリーと、土符タイプの後方射撃の組み合わせをZUN氏が思いついた時に、
天空璋の開発が決まったのではないだろうか。
発想が秀逸な分、一部スペカで季節開放のゴリ押し可能など、調整がやや雑なのが惜しまれるエキストラだが、
話の展開としては東方Projectの歴史の中でも、かなり綺麗であると言えるだろう。

ついでだが、工数削減が効いたのか、致命的なバグはそれほどないようだ。
スペルプラクティスに幾つか不具合があるので修正パッチを待ちたい。

そして、(これも工数削減の余裕のおかげかもしれないが)エンディングのキャラクターの絵が、かなり良い。
紙への作画からペンタブに変えてずいぶん経つを噂されているが、
ここに来てようやく、ZUN氏がペンタブに慣れて来たのかもしれない。
輝針城のころの線がヨタついて妙に病的なエンディング絵と比べると、
天空璋のエンディングのキャラクター絵の線の良さは段違いである。

あまり色々と書いてしまったが、総じて、前作の東方紺珠伝がシステム面も難易度面も挑戦的な作品だったので、
反動という名の一休みを入れたというあたりが正解かもしれない。
ただ、従来の東方ファンにとってみれば既視感ありまくりの作品だとしても、
まだ東方に触ったことのない人にとっては、東方Projectへの入り口として良い作品ではないだろうか。
例え、どれほど省エネと手癖が効いていても、あるいは種本が割れていても、
東方天空璋自体はつまらない作品ではない。
気軽に遊べるし、摩多羅神という興味深い神をネタに展開されており、
東方に興味を持つ層への「扉」としては良い作品だと思う。






(ここから本題)






さて、東方天空璋最大の謎は、摩多羅隠岐奈が「後継者」を探している、
というストーリーが何を意味しているのか、ということだ。
(エキストラステージ後に、後継者探しは口実で、本当の目的は八雲紫と思しき他の賢者へのアピール、
ということが明かされるがそれは置いておく)
後継者探しが当然のように言及されているが、元ネタの摩多羅神には、
二童子(丁禮多、爾子多)の後継者を探している、などという伝説や由来はない。
言うだけ野暮かもしれないが、この東方天空璋のストーリーのネタは、同人ゲーム作家ZUNにとっての、
「何らか」の後継者探し、というイメージを想起させる。

では、具体的に誰(どのサークル)という候補はあるのだろうか。

里乃・舞は、隠岐奈の「手足」であり、
「もし、本当のことを聞いていたらどう行動しただろうか。
 それでも何も変わらないだろう。
 隠岐奈の言う事に逆らうこと等考えられないからだ。」
という設定テキストを読み、ZUN氏の手足となる二人を考えると、
メディアスケープ株式会社でPlay,Doujin!を展開していることでも知られる、
D.N.A. Softwaresに所属する二人、DNA氏とルー氏が思い浮かぶ。
ZUN氏の手足というには、K社の編集である豚氏なども思い浮かぶが、作家と編集という関係は手足とは言い難い。

一方、「同人ゲーム」の後継者、という側面を暗に匂わせているとしたら、どうだろうか。
STGで後継者になり得そうな同人ゲームサークルといって思い浮かぶのは、
えーでるわいす、クロスイーグレット、エンドレスシラフあたりだろうか。
ちょうど東方天空璋が頒布されたのと同じ会場で、
エンドレスシラフは「∀kashicforce -inundation of brigade-」という新作を発表している。

あるいは、もっと直接の後継者として、東京電機大学AmusementMakers出身サークル達、
つまり、西方Projectをかつて作っていた瞬殺サレ道、五月雨を作ったRebRank、
そして雪晶石を作った後解散したProject Noise
(現在は秋空シンセシスというサークルが引継ぎ、「雪景花」を作っている)
の3サークルを想起させたいのか。
ここで一つ、面白い類似があるのは、RebRankが作ったSTG「五月雨」のバリアが、
東方天空璋の季節開放を思わせることである。
特に、秋装備の季節開放は五月雨をどことなく彷彿とさせる。
また、チルノもイメージ的に雪晶石を思わせるとすれば、
もしかすると、東方の後を継ぐ(というかお株を奪う)ような同人ゲームサークルがなかなか出てこない現状で、
ZUN氏が、後輩サークルに密かに『早く俺を倒しに来い!」とエールを送っているのかもしれない。

いや、あるいは、某氏の二人の子供が妖怪じみているので、早く成長させて人間にしてやりたい、
という親の心が……という可能性もなくはない。

このように、様々なことを想像してみるのも、東方天空璋の楽しい遊び方ではないだろうか。
ではでは。
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2017/05/09

夏が立って歩きまわり始めた今日この頃、いかがお過ごしだろうか。

さて、昨日の2017年5月7日に第14回博麗神社例大祭で頒布された
東方天空璋 ~ Hidden Star in Four Seasons.
の3人のボスについて、(ノーマルを全キャラでノーコンクリアしたので)、
いくつか気になったところをちょいと書き記しておこうと思う。

・1面ボス エタニティラルバ
体験版のCDレーベルに描かれた人物がこの妖精、エタニティラルバである。
綴りはゲーム画面で「Etarnity Larva」、omakeテキストで「Etanity Larva」だが、Eternityの誤植かもしれない。
eternityは「永遠」、larvaは「幼虫」という意味。
「永遠」という(意味に近い?)名、「神に近づく蝶の妖精」であること、幼虫、蛹、成虫の要素を併せ持つことから、
事前の予想通り、常世神を元ネタにした妖精だろう。
「常世神」とは古代の駿河に始まったアゲハチョウを神と祀る信仰で、秦河勝に教団ごと滅ぼされたことが歴史書にある。
筆者は、心綺楼の事前予想で、秦河勝と面霊気を予想したついでに、常世神も予想をしたことがあったが、
ここでようやく登場したか、という感じである。
なお、蝶の羽根を持つ妖精(大妖精)は、雑魚敵としてよく登場する。
エタニティラルバのキャラ説明テキストに、普段は「パワーアップアイテムを数個持参して遊びに行く」とあるように
彼女も、いつものSTGではボムのかけらなどを落とす、ちょっと強めの大妖精をイメージしているのではなかろうか。
(妖々夢4面のプリズムリバー戦直前の大妖精や、風神録6面の神奈子戦直前の大妖精など)

妖精関連で色々扱えるほか、虫同士リグルと、常世神関連で秦こころと絡ませるなど二次的扱いが容易そうではある。
三月精にも登場するかもしれない。

テーマ曲の曲名は、シェイクスピアの(あるいはそれを原作にしたメンデルスゾーンの)
『真夏の夜の夢』からだろう。
真夏の夜の夢は、妖精の王オベロンと妖精の女王ティターニアが引き起こす喜劇なので、
そのイメージもあるか。オベロン・ティターニアは(神主もファンの)女神転生シリーズ常連の登場悪魔でもある。

・2面ボス 坂田ネムノ

種族「山姥」で、見た目も巨大な山刀を持ち、茶系の服を着た女性である。
「坂田」という姓やゲーム中のセリフから、金太郞(坂田金時)の母親が山姥という伝説がモチーフなのは間違いない。

ここで重要なのは、金太郞出生伝説がある土地の一つ、長野県大町市八坂(旧八坂村)が、
ZUN氏にとって「あの山奥での生活が私に与えたインスピレーションは多大な物だった」といわしめる、
なじみ深い土地であること。
ZUN氏のブログ博麗幻想書譜の2006年1月4日の記事「そして地図から消えた村へ」
で紹介されている、ZUN氏の母方の実家の村こそが旧八坂村なのだ。
「どんなホラースポットも顔負けのナチュラル妖怪ヴィレッジ」と神主も言う通り長野県でもかなり隔絶された僻地である。
そしてその旧八坂村の真ん中にある「大姥山」には、まさに金太郞の母親である大姥を祀った「大姥神社」が鎮座している。
大姥神社の周囲には、金太郞の産湯に使われたという池など様々な伝承が残されている。
こうなると、坂田ネムノの第一のモデルは、まず旧八坂村の大姥神社の祭神である「大姥」と見てよかろう。
なお、筆者も旧八坂村を訪れ、大姥山に登ったことがある。
以下のブログ記事を合わせてご覧いただければ幸いである。
旧八坂村探訪記1
旧八坂村探訪記2
なんといっても、「妖怪と神が一体となった信仰」が息づいている魅力的な場所であり、
坂田ネムノファンは(こっそり)一度訪れてみるといいかもしれない。
ただし、大姥山はクサリ場が続く急な斜面があるので、ルートによってはそれなりの山登りの服装が必要である。

なお、旧八坂村では、大姥と八面大王が恋仲になって、金太郞が生まれたという伝承がある。
旧八坂村の旅館、明日香荘の公式サイトの「大姥様と金太郞の伝説」では、
「大姥は有明山の八面大王と恋仲になり、大王の子を宿し産んだのが金太郎である。」
とある。
八面大王とは、魏石鬼(ぎしき)八面大王という長野県の伝説的な鬼、
あるいは8人の盗賊の呼称と言われている。
8人の盗賊といえば、初版蓬莱人形の「正直村の八人」が思い起こされるので、そちらの元ネタを考えるのも面白い。
しかし、まず八面大王が鬼だとすると、その妻がこれまた有名な「紅葉」だという伝承にも行き着く。
紅葉といえば長野県の戸隠の有名な鬼女であり、鳥山石燕の今昔百鬼拾遺にも「紅葉狩」として出てくる。
すると、八面大王を中心に、「金太郞の母である、旧八坂村の大姥」と「戸隠山の鬼女として有名な紅葉」を
重ねることも可能で、坂田ネムノに紅葉のイメージが入っていると考えると、
紅葉からの連想で坂田ネムノが「秋」を割り当てられたと考えることもできよう。
また、鬼女の紅葉は、10世紀の人物である源経基と都で一時期暮らしたという話もあるようだ。
すると、坂田ネムノの「浮き世の関を超える山姥」の「浮き世の関」とは、(慣用句の意味以外にも)
逢坂の関のことを指しているのかもしれない。

さてここまで、八坂や戸隠にスポットを当ててきたが、もちろん、
長らく神奈川県住まいで箱根の温泉も好きな神主のことだから、
足柄山の方も意識しているところはあるのかもしれない、と付け加えておく。

さて、「坂田」の方は金太郞関連で考えればいいが、「ネムノ」はどうだろうか。
ここで、かつてNHK Worldで東方特集が放映された時に映った、ZUN氏の仕事場の本棚の本に注目すると、
中野進『花と日本人』という書籍の中で「ネムノキ」について述べられていることがわかる。

「これで思い出されるのが、東北三大祭の一つといわれるネブタ祭である。
漢字で佞武多などと書かれるとどんな意味かわからない。
ネブタの「タ」は古い用法で「ノ」の意味であるから、「ネブタ」は
「ネムノ」つまりネムの木に由来していると考えられる。」
(中野進『花と日本人』2000年 146ページ下段9行目から引用)

「ネムの葉で目をこすると早起きができる。特に七夕の朝に行なうとよいとか、
また七夕の日にネムの木を伐りとってきて
『ネブタ流れろ、マメの木とまれ』と、唱えながら川へ流し、ネムの葉で目を洗うとよく見える、
といった民間信仰もある。」
(同、147ページ下段1行目から引用)

ここから、坂田ネムノの「ネムノ」は、ネムノキの意味と同時に、
東北のネブタ(ネプタ)を意味していると考えて良かろう。
坂田ネムノの特徴的な方言ぽい言葉使いは、東北の住民を意識したのかもしれない。
ただ、坂田ネムノはスペルカードやテーマ曲でも、ネムノキやネブタ祭をあまり考えさせない。
なぜ、ネブタなのだろうか。
ここで、ネブタが旧暦の七夕の時期に行われること、天空璋の初期タイトルが「天星璋」だったと思われることから、
(天空璋体験版のウィンドウのタイトルが「天星璋」だったり、
起動ファイルをメモ帳に突っ込むと「天星璋」の文字列があったりする)
もしかすると、(璋の字から北斗七星=天龍絡みでは? という予想を裏切って)星関係でも、
七夕関係の異変なのかもしれない。
あるいは、旧暦が幻想入りして約1箇月ずれることがモチーフなのかもしれない。
なにしろ、七夕が秋の季語であるように、本来の季節とずれてしまっているのだから。

・3面ボス 高麗野あうん
3面はなんと博麗神社でボスと闘う。
博麗神社がステージになるのは黄昏作品だと頻出だが、本家の原作STGではおそらく東方封魔録1面の
里香以来ではないか。
そのボスの高麗野あうんは狛犬キャラである。
神社の守護、一人で二人、というキャラ造形は、東方第一作目の東方靈異伝の最初のボスである
「シンギョク」を連想させる。

なお、高麗犬の「高麗(こま)」は、歴史学的な高麗(こうらい)ではなく、高句麗の方を指す。
高句麗の時代から、「高麗」という名称で呼ばれ、当時の日本でも高句麗を高麗と書いて「こま」と呼んだのである。
また、高句麗は「貊」とも呼ばれていたことから、貊=狛=高麗が、ともに「こま」と呼ばれるようになったようだ。
ただし、(話が複雑になるが)、「こまいぬ」と高麗=狛の関係は必ずしも明らかではない。
大陸で獅子だったものが、朝鮮を通じて伝わったため、犬だと思われた、など説があるようだが、正直よくわからない。
このような場合、神主の所有する書籍に何か狛犬に関する独特な記述があって、それを種本にしている可能性が高い。

さて、ここからは元ネタと確定している話ではないが、埼玉県に、
かつてその名も高麗郡と呼ばれる地域があったことはご存じだろうか。
高句麗(つまり当時の呼称の「高麗」)が唐・新羅に滅ぼされた時(西暦668年)、
多数の亡命者が日本に来ることになった。
日本の朝廷はそれら帰化人を武蔵国に住まわせ、高麗(こま)郡としたらしいのだ。
この古代の武蔵国高麗郡は、現在の埼玉県日高市や鶴ヶ島市の地域などに当たり、
その歴史を今に伝える高麗神社が残っている。
(以上の由緒も、「高麗神社」の公式ホームページの解説「高麗神社の由緒と歴史」を参考にしたものである)
この高麗神社は興味深いことに、ZUN氏が東方Projectを生んだ東京電機大学鳩山キャンパスがある、
埼玉県鳩山町に近い。
地図を見て貰えればわかるが、鳩山町の南へ少し行ったところが、古代高麗郡であり、高麗神社がある。
近年、同じく埼玉県の聖天宮が東方Projectの背景にたびたび使われるようになったことを思えば、
高麗神社も埼玉県ネタとして、高麗野あうんを通じて何らかの意味があるのかもしれない。
この高麗神社、将軍標が立てられるなど、韓国とつながりが深い。
もし高麗神社が何らかの元ネタとなっているなら、色々面白そうだ。
東方は、日本と中国のキャラは豊富だが、それ以外のアジア系はそれほどいない。
東方は韓国にも沢山ファンがいるので、案外そこら辺の二次的アプローチもありかもしれない。

さて、あうんは、霊夢が知らないにも関わらず、神社を守護している、という、
これまた意外というか、かなり強引なキャラ設定を持っている。
勘のよい霊夢すら知らないのに、神社の守護をしていて、しかも結構弱い。
原作者側の「東方のなんでもアリ感」の演出のために、このような強引というか掟破り的なキャラ設定なのかもしれない。
(二次創作を考えると、地霊殿エンディングで博麗神社のペットになったはずなのに、影も形もないお燐は、
実は高麗野あうんに追っ払われていたとか…… 
お燐とあうんの取っ組みあいを描くだけの薄い同人誌が出てもおかしくない)
設定だけ見ると、意外と古い妖怪なのかもしれない。
二次的には、先代巫女だとか、大昔の博麗の巫女だとかを語らせると良さそうなキャラである。
あるいは、儚月抄で霊夢が留守にしていた間に、高麗野あうんが神社を守る話なんかも良さそうだ。

キャラ設定テキストでは、「意図的に重大なものが隠されていると悟った」などと意味深な説明がされている。
もしかすると、5ボス~6ボスあたりのキャラに、なにか告げ口しに行くような展開かもしれない。
(神仏を見つけ出す能力があるので、石長姫だとか、龍神だとかに会うことも可能かも?)

さて、3人について、とりあえずの覚え書きはこんなところである。
システムなどについては、ハードやルナティックまでやらないとよくわからない。
特に、スコアエクステンドが季節解放をやった結果、どのくらい早くなるのか、
ノーマルレベルだと、あんまりよくわからなかった。
加えて、弾へのカスリなどもそうだし、4つもあるサブ季節の選択もいまいち把握しきれていない。
音楽も、今のところ、輝針城や紺珠伝ほどには、耳に残っていない。
もう少しプレイしないと、何も言えないという感じである。 

まあ、なんやかんや言って、製品版が楽しみである。

2016/08/03

前回の記事で、
「徹底的に観客が持つ『映像的教養』に『ただ乗り』することで、特撮、群衆シーンを削減し、お金と尺を抑えた」
という点を話した。

次はもう一つ、
「観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費用を抑えた」
ということを指摘せねばなるまい。

シン・ゴジラの話題は現在、映画を見た人々の間で、様々に盛り上がっている。
いや、映画の力によって、語らせられていると言うべきか。
映画に限らず、おおよそ文化作品というのは力があれば、接した人間は自発的に語るものである。
それは、体内から噴出する得体のしれない欲望であって、ゴジラが吐く炎のようなものだ。
誰か受け手がいるかどうかは関係がない。

そして、そういった力を引き出すことにかけて、シン・ゴジラは凄いのだ。

例えば、「ゴジラの尻尾から出てくる人型の謎」。
あれはあからさまにエヴァファン層へ向けての盛り上がりポイントであって、
他の層、例えばゴジラファン層へ向けたものではない。
また、大昔のモノラル音源のBGMを使ったのは、現代のSF好きや東日本の震災シーンに響く層向けではなく、ゴジラファン向け。
あるいは、政治家達がうじゃうじゃ出てくる前半は、震災後のゴジラがどう描かれるか気にする社会的な視野を持つ層には大受けだろう。
凡庸な映画は、「感動ポイント」を物語のどこかへ設定したら、そのための伏線を張り、キャラクターを動かして盛り上げ、
観客に(結末は予想できたとしても)どう感動ポイントへ到達するんだろうか、とドキドキさせる、そういう作りになっている。
あるいはもっとマシな映画でも、複数の異なった層へ盛り上がりポイントを設定できる、というのはなかなか難しい。
「THE 有頂天ホテル」のような群像劇でも、観客の嗜好によって大幅に盛り上がるポイントが異なるというのはないだろうと思う。

しかし、シン・ゴジラは、人によってかなり異なるだろう。
ゴジラの破壊映像やゴジラとの戦いの描写に対する評価ですら分かれる。
・最初に上陸したゴジラは恐くて最高だったが、その後のゴジラは足が遅くていまいち
という人はいただろうし
(ジュラシックパークのような生物の凶暴さが見たい人はこうかも)
・中盤のゴジラがレーザーでステルス爆撃機を撃ち落とし、東京の高層ビル群を焼き切ったあたりが頂点、最終決戦は陳腐でがっかり
と思うかもしれないし
(最新の映像美でSF戦闘シーンが見たい人はこうかも)
最終決戦こそがこの映画を傑作にした! という人もいるだろう。
しかもそれは二つに分かれるだろう。
・原発事故のオマージュとして素晴らしい。注水ホースのような凝固剤注入車から凍土壁作戦のような滑稽さまで完璧に描いた!
と、原発事故後の映画、という視点で評価する人と
・歴代ゴジラおよび怪獣によって常に破壊されてきた、「高層建築」「化学施設」「鉄道車両」がゴジラを倒すところにカタルシスを覚えた!
というところに(無意識にしても)、ゴジラシリーズの総括的決戦の美を感じる人とに。
(「無人在来線爆弾」が物凄い絵を生み出したのは、シリーズで電車は怪獣に破壊されるだけの弱い乗り物に過ぎなかったからだ)
ゴジラの描写だけでも、おそらく簡単に評価は分かれる。

これは、もちろん意図的に仕掛けたのだろう。
映画の中のさまざまなシーンが、観客のそれぞれの層に特異的に響くようになっている。
すると、同じ映画を見ながら、他の観客と盛り上がるポイントがずれまくることになる。
こうなると、人は何か言いたくなるだろう。
(人は、他人が自分と同じ考えを述べるとみると、代弁してくれた気になって自分があえて言わなくてもいいだろうと思う)
鑑賞後のネット上の評判はこうして多様に話題になる。
あるいは、複数の層への感受性を兼ね備えた人は、複数ポイントで別々の盛り上がり体験をするために、
「傑作。とにかく見てない人は見に行け」とまず言うかもしれない。
こうした、観客(これはもちろん、日本人一般ではなく、あくまで「シン・ゴジラを見に行きそうな人々」)へ様々な層に響く仕掛けが、
シン・ゴジラの特徴なのだ。

ある層は、小池元防衛大臣や甘利元大臣に似ていたキャラクターがいた、とか、
防衛大臣を女性にしたことに絡め「ゴジラ対ビオランテ」の女性官房長官との類似を指摘したり、
主人公の矢口のモデルは小泉進次郎なのか(宣伝の髪型は結構似ている)、
震災後の原発担当大臣だった細野豪志なのか、とか話題にするかもしれない。
似ているがちょっと違う別の層は、現実の安保法制や政治状況と絡めて語り出すかもしれない。

ある層は、過去のゴジラのシーンや、岡本喜八の映画と比べるだろうし、
グローリー丸が、栄光丸のオマージュだとか、ゴジラが進化して空を飛ぶかもというのはスペースゴジラを思わせるとか、
話題にするだろう。当然、核兵器を巡るやりとりで84年版ゴジラも話題に出るだろう。
似ているがちょっと違う別の層は、DAICON FILMの「八岐之大蛇の逆襲」に「八塩折」が出ていることを話題にしたり、
ゴジラの攻撃がイデオンの射撃シーンに似ていると言うだろうし、
また冒頭で死んでいる重要人物の話でパトレイバーとの類似を指摘するだろう。

ある層は、新元素がニホニウムを思わせたり、最終決戦でゴジラを苦しめた東京駅そばの超高層ビルが2027年完成予定だと指摘するだろうし、
作中で出てくるパソコンが、アップルだったりパナソニックだったり細かい、と指摘するかもしれない。
そして、作中の自衛隊や米軍の装備について、熱く語ってくれるかもしれない。
似ているがちょっと違う別の層は、攻撃ヘリや10式戦車の弾が効かないゴジラの表皮は何で出来ているのか語ってくれるだろう。
あるいは、核攻撃があったらどうなっていたか、議論になるかもしれない。

ある層は、いかに原発事故がゴジラ映画を変えてしまったかを東京の空襲や第五福竜丸と原発事故を比較して語るかもしれないし、
初代ゴジラの芹沢博士の英雄的な死と、チームの主要人物が誰も死なずにゴジラを止めたシン・ゴジラを比較するかもしれない。
あるいは、初代ゴジラの女声合唱と、シン・ゴジラの矢口の演説を比べるかもしれない。
似ているがちょっと違う別の層は、海外のゴジラやSF洋画と、いかに日本のゴジラが違うかを説明しようとするかもしれない。

ある層は、ゴジラがいかにエヴァっぽいかを語り、
似ているがちょっと違う別の層は、ゴジラの尻尾から人型が出てくる謎で盛り上がるだろう。

ネットでざっと見て、目に付く感想は、他にもありそうだが、これぐらい、語れてしまうポイントの多い映画だ。
(もちろん、東京都民や鎌倉市民らは特典として舞台を語るだろうし、次回作の予想を語ってもいいが、これはどの映画でも同じだだろう)
例えば、石原さとみの演技は浮きまくっていたか、あれもどこかの層にウケているのかもしれない。
いかに作り手が、観客に語らせたくて語らせたくて語らせたくて、たまらないか、そういう映画なのだ。

そして、重要なことは、これら多様な層が盛り上がりそうなポイントが、映画のどこか一つ(たいていは終盤のクライマックス)に
集中しているのではなく、映画の最初から最後まで、満遍なく投下されていることだ。
政治的な興味が高い層と、SF好きの層が盛り上がるポイントはうまくずれているし、
エヴァ好きとゴジラ好きが反応するシーンも上手くずらされている。
エヴァっぽいBGMはゴジラの登場シーンではまず使われないし、
ゴジラの尻尾から人型が出てくるという、エヴァファンが話題にしそうな謎は、ゴジラが倒された後に提示される。

こうして、上手い具合に盛り上がりポイントが観客の層ごとにずらされているのだ。
それが、観劇後の人々の話題の多様性を生み出しているのではないだろうか。

一応言っておくと、ネット上のこのような熱狂は、意外とあっという間に冷めてしまうかもしれない。
なにしろ、この映画には恋愛も性的要素もないので、そういった想像、妄想の余地がない。
美少女もいなければ、美人女優とイケメン男優との恋愛どころか、主要人物は家族すら一切登場しない。
もちろん、一般市民が一切活躍しない映画なので、「もし自分が主人公だったら」というような空想もしにくい。
そして怪獣好きのはずの子ども、特に小学校低学年には、この映画は色々と厳しいだろう。
何しろ、小学校低学年の子どもたちは、前回述べた「ゴジラ」「エヴァ」「東日本大震災」という三つの映像的教養を持ってない可能性が高いから。
つまり、シン・ゴジラという映画は、多様な層が反応するシーンやネタを次々に繋げることに特化した結果、
人間ドラマの部分をごっそり切り落とした。
あるいは、そういう人間ドラマは「東日本大震災」という観客が共通して持ってるはずの映像的教養で補ってね、ということだ。
シン・ゴジラと同じくSF映画のシリーズものである「スターウォーズ/フォースの覚醒」(Epsode7)も
いくぶんは多様な話題性を持っていたが、人間ドラマをそれなりにやったために、
観客の多様な層に向けて様々なネタを提供して話題性を作り出すということにかけては、シン・ゴジラに遠く及ばなかった。

もちろん、配役の役者自身の話題性や、テレビ番組の宣伝などの効果もないため、そういった「芸能人記事」的な話題もシン・ゴジラにはない。
芸能業界方向での話題作りには、それなりのお金がかかるのだ。

こういう、いくつかの大きな弱点があるために、シン・ゴジラの口コミ的盛り上がりがどこまで持続するかは未知数だ。

しかし、現状では実にうまく、盛り上がっている。
少なくとも、見に行った人々は、「ネタバレ前に見に行った方がいい」と言っているし、
上記の「話題の多様性」を保ちつつ、全体としては「全方向に好評」だ。
これは凄いことである。
そして、ほとんど宣伝らしき宣伝をしなかったシン・ゴジラがヒットになれば、
宣伝費を大幅に削減した映画としてのモデルになるかもしれない。

これが、シン・ゴジラの素晴らしい点、つまり「よくできた映画」としての美点その2、
「観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費用を抑えた」
である。

さて、これでシン・ゴジラがどう凄かったのか、おわかりいただけたと思うが、蛇足ながら、尻尾の人型の謎についての解釈もしておこう。
やたらお金だ、尺だ、という話ばかりでは、映画の批評として花がないだろうから。

尻尾の人型はあからさまにエヴァファン向けに投げられた謎解き趣向なので、
やみくもに考えるよりも、庵野秀明的な思考をトレースした方がいい。

すると、牧教授が妻を亡くした、という設定から、ただちに碇ゲンドウに結びつくとともに、
失った娘の遺伝子をバラに移植してビオランテを誕生させた「ゴジラ対ビオランテ」の白神博士とも結びつく。
ここから導きだされるシン・ゴジラの隠された設定は
・牧教授は亡くなった妻の遺伝子を、水棲生物に組み込んでゴジラの幼魚を生み出した。
ここまでは誰でも予想がつくだろう。
問題は、牧教授がどういう生物に妻の遺伝子を組み込んだか、だ。
ここで、私は
・「ミツクリエナガチョウチンアンコウ」がゴジラのベースになった
という解釈を唱えたい。
ミツクリエナガチョウチンアンコウとは、オスがメスの身体に寄生し、徐々に目も消化器官も退化し、
やがて生殖器だけになってメスと一体化する、という実に不思議な魚だ。
牧教授が妻の遺伝子を組み込んだのがミツクリエナガチョウチンアンコウならば、
オスはメスと融合することが出来る。
・東京湾で牧教授はゴジラの幼魚と融合することで、真・ゴジラになり、映画冒頭のシーンになった。
これこそが、牧教授の「好きにした」ということではないか。
そして、妻=ゴジラと融合した牧教授は、身体のほとんどの器官が退化し、生殖器だけになった。
これこそが牧教授が望んだことであり、ミツクリエナガチョウチンアンコウを選んだ理由であった。
(漫画好きなら、弐瓶勉の短編SF漫画に「ポンプ」という作品があったのをイメージしていただければと思う。
庵野秀明が、どこかで弐瓶勉の短編集を読んでいるような発言があればこの説はかなり確実性を増すのだが……)

そう。
・ゴジラの尻尾に見えるものは、超巨大な生殖器となった牧教授その人である
そしてここから、なぜ最初に海上から突き出る「長いもの」を、首相以下登場人物全員が「しっぽだ」と断定したのかがわかる。
作り手である庵野氏は、あれが「牧教授=生殖器」であることを観客に寸分たりとも悟らせたくなかったのではないか。
だから、登場人物を総掛かりにしてミスリーディングを行ったのだ。
そもそも、あのシーンは、象の鼻やら軟体動物の足など、他の解釈もありうるのにいきなり「しっぽだ」は不自然すぎる。
その答えがこれだ。あれはゴジラの尻尾ではなく、(比喩ではない本物の)ゴジラの、そして人間の男性生殖器だったのだ。

・妻と融合して雌雄の性質を兼ね備えたため、無性生殖(に見える生殖)が可能になった。
・口からだけでなく、尻尾(生殖器)の先からもビームを発射できたのは、尻尾(生殖器)の先にも体液などを放出する開口部があったから
・尻尾が生殖器なので、自衛隊は尻尾を集中攻撃するようなことは絵的にないし、ゴジラ側も尻尾で民家をやたらと破壊したりはしない
・尻尾=生殖器の先から、子どもが生まれるが、両親は牧教授とその妻なので、人間の遺伝子がベースになった人型が生まれる。

こうして、尻尾から人型が生まれる謎は、
「ミツクリエナガチョウチンアンコウに妻の遺伝子を組み込んだ牧教授が、その幼魚と融合してゴジラになったから」
ということで、綺麗に解けるのではなかろうか。

以上で長かったが、シン・ゴジラの感想を終えたい。

最後に蛇足だが、東方の話題縛りのブログなのでもう一つ。
東方Projectの作者ZUN氏がシン・ゴジラに満足したのは、きっとライトな鉄ヲタだったからだろうと思っている。
東方緋想天で、八雲紫に廃線「ぶらり廃駅下車の旅」という電車攻撃を繰り出させた人のことだ。
無人在来線爆弾には、大いに喜んだであろうことは想像に難くない。
界隈の一部でPS4版深秘録に、新幹線爆弾や山の手線爆弾が出るかも、と噂されたらしいのも、さもありなん、と言ったところだ。

2016/08/03

滅多に更新しないブログだが、ゴジラシリーズ最新作の「シン・ゴジラ」を二度鑑賞したので、ちょいと触れてみたいと思う。
このブログは東方Projectの話題縛りなのだが、原作者のZUN氏もシン・ゴジラが面白かったとtwitterでつぶやいていた、
というネタを持って、縛りクリアとしておきたい。

この映画、いかに人々に「語らせたい」と思わせるか、その部分が極めて戦略的だ。
このブログ記事自体、その作り手側の戦略に乗せられているわけだが、まああえて乗ってみようという。

映画というのは、
・ものすごくお金がかかる。
・やりたいことを詰め込むと尺が伸びる。
というものだ。
そして日本の映画産業の現実は
・製作費をかけられないし、費用のかなりの部分は宣伝に使われる。
・映画館の回転のために尺を切り詰めないといけない。
とこうなっている。

ここでシン・ゴジラは実に見事に、予算的、作品時間的な模範を示した。
それは、
・徹底的に観客が持つ「映像的教養」に「ただ乗り」することで、特撮、群衆シーンを削減し、お金と尺を抑えた。
・観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費を抑えた。
この2点である。

過去、28作のゴジラ作品を全て観た人間だが、このような性質を持つ作品はなかった。
あるいは、邦画全体でも無いのではないか、と思う。

○観客が持つ「映像的教養」に「ただ乗り」した。
特撮はお金がかかる。
ミニチュアを破壊するにせよ、CGでやるにせよ、表現する舞台が大がかりであればあるほど必要な資金は増える。
また逃げ惑う群衆を撮影するときのエキストラだって大変だ。
それらをほとんど描かずにすめば、お金も尺も下げられる。
そして、現代の日本で庵野秀明氏がゴジラを作る際、映画館に行きそうな日本人が持つ共通の「映像」
これを「映像的教養」と言いたいが、それが3つあった。
「ゴジラ」「エヴァ」「東日本大震災」である。
ここで、特撮ファンは映像的教養「ゴジラ」を持っているし、
邦画ファン(例えば「日本のいちばん長い日」(67年版)を観ている層)は映像的教養「東日本大震災」を持っているとする。
そして、ほとんどの観客は、上記3つのうち2つの教養はある、と見なせる。

シン・ゴジラは、その3つに徹底的に頼った。
「ゴジラ」はいわずもがなだろう。シリーズものの根幹だからここではあまり触れないが、
ゴジラという物理学・生物学の法則を無視したキャラが存在できるのは、
現代のSFレベルでは「シリーズのお約束だから」としか言えない。
もしシリーズ作品でなければ、なぜゴジラが存在できるのか、煩雑なSF的説明シーンがもっと必要になっただろう。
「エヴァ」については、音楽、台詞回し、一部ゴジラの攻撃、ゴジラが進化していくという設定などだ。
エヴァのそれらに、さらに元ネタがあるかどうかは、この際意味はない。
映像的教養としての「エヴァ」を身につけた観客は、「ヤシオリ」という言葉から
「ヤシオリって、完全にエヴァのヤシマ作戦じゃねーか!」という連想で直結した後は考察がストップしてしまい、
見終わった後にネットで検索し、「あ、ヤシオリってヤマタノオロチを退治するとき飲ませた酒の名前だったのね」
と気づくまでは、まさか他の意味があろうとは夢にも思わないのである。

そして、制作費と尺の切り詰めの削減に最大の威力を発揮したのが、
観客の多くが持っている「東日本大震災」の映像の記憶に、最大限乗っかることであった。
あの震災を当時メディアで見た人は、宮城県の閖上(ゆりあげ)に津波とともに押し寄せる船の映像や、
放射線量を示す地図、そして何より、原発事故に際し、電源停止、ベント、建屋の爆発、住民の避難
等々を巡って右往左往する官邸や政治家の動きを、今でも鮮明に覚えているだろう。
これこそが、シン・ゴジラを「会議だらけ映画」に出来た最大の理由だ。
もしこの映画が2010年に作られていたら、と考えて欲しい。
政治家が延々と会議する特撮映画、あるいは主人公が政治家だというだけで、非難が殺到したかもしれない。

ゴジラを観に来る客は、人々が逃げ惑い、街が破壊されていく様を見たいに違いない……それは正しい。
しかし、「東日本大震災」の映像的教養があるが故に、観客はシン・ゴジラの会議シーンにも好意的にならざるを得ない。
(ごく一部の岡本喜八ファンが別の意味で喜んでくれれば制作者側には望外のヒットだが、
残念ながら多くの観客はそこまで邦画は見ていない)
大人数の役者が政治家役で出てきて、延々と喋る。
それどころか、閣議室で報告をする大臣の後ろから官僚がメモを差し入れるシーンに尺を使う。
これを見て観客は「巨大生物や街が破壊されるのを見るために来たけど、こういう映像もありかも」と思わされてしまう。
あるいは、最終決戦で、主人公たちが放射線防護服で覆われているために、
声がモゴモゴしていて、ちゃんと聞き取れなかったり、
どういう演技をしているのかあまりよくわからなくても、ある種のリアルさとして許容できてしまう。
この時点で相当の金と尺を減らせたわけだが、さらに庵野氏側の仕掛けた罠は用意周到だった。
それは、徐々に観客を作中の国民の目線に落とし込むという離れ業だ。

○観客そのものを作中の国民の地位に落とした術

シン・ゴジラを見た人は、作品世界の一般国民に共感しただろうか?
おそらく共感した人はほとんど居なかったのではないだろうか。
なぜなら、作品世界の(ゴジラによって被害にあう)国民はどんどん存在感が薄れていくからだ。
映画の最初では、ゴジラに対する作品世界の国民とは
「ニコニコ動画風の弾幕コメント」や「twitter風のSNS画像」あるいは
海底トンネルの滑り台のような脱出路を使う女性、一回目の襲撃後に無邪気に登校する女子学生のグループ、などだ。
また、最初に上陸したグロテスクなゴジラが高層マンションを押し倒す際に、逃げ遅れて死ぬ家族も、作品世界の一般国民だろう。
こうした映像を見て、「リアルだ」と感じた人も多いのではないか。

だが、作品中盤からこれら一般人を象徴する映像が次々と消えていく。
ゴジラの進路に従って放射線量が上がるというシーンで、再びtwitterらしき画像が出た後は、
「ニコニコ動画風」や「twitter風」の画像は一切出なくなる。
また、一般国民の姿自体が印象に残る映像も、空撮でデモを行う一般人の群れを捉えたシーンが最後だろう。

映画の終盤で、バスで避難したり、避難先の体育館にいる一般国民の姿は映されても、
そこに、なにがしかの強い映像効果は見いだせない。
さらに、姿だけでなく、国民は数字としてすら姿を現さない。
最初の方で、テレビ報道でゴジラの襲撃による死者の数が(数十人だったか100人だったか)発表されるが、
後半では、一体国民が何人死んだのか、核攻撃があれば避難に遅れた国民が何人死ぬと推定されるのか、
そういった事態をイメージするために必要な数字が一切出なくなる。
出るのは避難に必要な人数が何百万だとかで、被害者の方の具体的なイメージがまったく湧かないようになっているのだ。
最初の方のエレベーターのシーンで、主人公矢口が、先の大戦では希望的観測のために310万人が死んだ、
と具体的な数字を上げていたにも関わらず、最終的に国民が何人死んだのかまったくわからないし、
観客は興味も湧かないように仕向けられたのだ。

つまり、この映画は「ゴジラによって被害にあっている一般国民を、中盤以降、いかに観客に忘れさせるか」
という戦略の上に作られている。
もし、中盤も終盤も、ニコニコ動画風の弾幕やtwitter風のネット反応のような映像が、
ことあるごとに挿入されたらどうだったか。
観客は、映像世界の「襲うゴジラと襲われる国民」を外から冷静に眺める立ち位置に終始しただろう。
そして、「被害に遭う国民」を描くために、膨大な制作費と映像時間(尺)が必要になっただろう。
ビルや橋をゴジラが壊し、逃げ惑う群衆を描けば描くほど、お金と尺がかかるのだ。
ましてや、本来ストーリーの暗示になるはずだった主人公のセリフ通り、
ゴジラによって「死者310万人」などということになれば、その数字を、
実際のイメージとして観客に納得させるために、どれほどお金をかけて映像を作らなければならなかっただろうか!

だがシン・ゴジラでは、「襲われる国民」がいなくなってしまった。
、「襲われる国民」の姿が消失したことで、映画の構図が完全に変容していく。

その変容が完成したのが、主人公矢口が、自衛隊らの決死隊の前での演説である。
あの演説は、作品世界ではこれからゴジラを倒しに向かう決死隊メンバーへ向かって言われているが、
明らかに、言葉が向けられている先は、映画館で映画を見ている観客である。
あの言葉で、観客は、ついに映画世界の一般国民の代わりに、
「映画世界の政府と対面する一般国民」の地位に落とされるのである。
この映画の構図は、冒頭から中盤までの「襲うゴジラと襲われる映画世界の国民」から、
中盤から最後までの「ゴジラを倒しに行く政府関係者と、それを見守る現実世界の国民=映画館の中にいる観客」
へ変わるのだ。
そして、それを成功させたのが、観客が持つ「東日本大震災」の映像的教養なのである。
おそらく、ほとんどの観客にとって、矢口の演説の最後のセリフは、
震災から立ち直ろうとする日本人への、そして「自分たち」へのエールに聞こえただろう。
それこそが、庵野氏が、制作側と配給側が仕掛けた、最大最高のからくりだったと、私は思う。
映画の構図が、「ゴジラを倒しに行く政府関係者と、それを見守る現実世界の国民=映画館の中にいる観客」
になってしまえば、前半の会議だらけのシーンは、構図的正当性を得る。
(「日本のいちばん長い日」を想起して、庵野流石だ! と喜ぶ人間などごく一部である)

もちろん、特撮ファン、ゴジラファンに対しては、庵野氏は短い尺の戦闘シーンだけで満足させる自信があっただろう。
しかし、映画が大成功を収めるためには、コアなファンへの満足だけではいけないのだ。

観客が持つ「東日本大震災」の映像的教養に「ただ乗り」し、
シン・ゴジラは「観客そのもの」を作品世界の国民と、擬似的な立場すり替えを行ったのだ。

この脚本の戦略が大成功を収め、低予算と尺の削減が完成した。
特撮シーンに比べたら、会議だらけの映画がどれほど安上がりか!
シン・ゴジラに影響されて、これからの日本の特撮、SF映画が会議シーンだらけにならないことを祈るばかりだ。

これがシン・ゴジラの見事な点その一
「徹底的に観客が持つ『映像的教養』に『ただ乗り』することで、特撮、群衆シーンを削減し、お金と尺を抑えた」
である。

余談だが、実に興味深いことに、あの矢口の演説の時だけ、音質のクォリティが跳ね上がっているような感覚を覚えた。
スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」で、モノクロ映像の中に赤い服の少女が現れたり、
火の明かりが点いたりするような感覚だ。
あれは単にサラウンドなど音響の調整だけで作り上げた効果なのだろうか?
だとしたら凄いことだ。
他のシーンで人物のセリフの超高音域をカットしたり、音質を落として、
あの主人公の演説だけ、声の音質をよく聞こえるさせようとか、
何かそういう仕掛けを行っていたのか、とつい疑ってしまう。
(ちなみに前半の人物の動きがやたらチラつくのも、CGゴジラの違和感を抑えるために、
わざと実写部分のフレームレートをテレビアニメばりに落としたんじゃないか? などと思ってしまう)
あるいはモノラルの昔の音源を使ったのも、あの主人公のセリフを印象づけるためというのもあったのか、とも。
まったく別々の映画館、一つは後ろ、もう一つは一番前(4DX)で聞いたが、どちらでもあの演説のみ素晴らしく良く聞こえた。
音像定位も良かったし、あれは上手く作ったな、と脱帽である。

なお、庵野秀明監督は、もし自分がウルトラマンを作ったら、という座談会の話題で、
「組織をやりたい。ウルトラマンは最後の1カット出てくるだけでいい」というような趣旨の発言をしている。
今回のシン・ゴジラの戦略が、庵野氏が持っていた元々の嗜好にぴったり一致した、というのも附言しないといけないだろう。

さて、シン・ゴジラの最大の効果は上記だが、もう一つ、見逃せないことがある。
それは、宣伝費を極力抑えるために、何をしたのか、ということだ。

それが「観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費用を抑えた」ということなのだが、
次の記事に譲るとする。

→次の記事「シン・ゴジラという圧倒的な「よくできた映画」2」へ。



2015/08/09

記録的な猛暑日の続く日本に閉じ込められた人間と妖怪の皆様、いかがお過ごしですか。
来る2015年8月14日、コミックマーケット88 一日目 東館6ヌ-46bにてサークル「Abysmalhypogeum」で参加します。

出し物はこちら。

『アリス・マーガトロイド著 月々抄 ~ Impeccable Night.第五巻 
須臾の望と永遠の郷 ~ The Perishable Moon.』第三版 精油符附き
月々抄第五巻_カバー告知用2


東方儚月抄を主題にし、
鈴仙優曇華院イナバの章、射命丸文の章、姫海棠はたての章、再び八意永琳の章、謎の最終章に加え、
第一章である博麗霊夢の章を冒頭に再掲した連作短編小説集です。

『アリス・マーガトロイド著 月々抄 ~ Impeccable Night.第六巻(最終巻) 
霝月(あめふるつき)は、もしかして龗儚(かみのはかなさ)、
なにをしても孁幻(おんなのまぼろし)、いつまでも靈夢(たまのゆめ)』第二版 合成香料符附き
表紙ブログ用3

東方儚月抄を主題にし、
魂魄妖夢、蓬莱山輝夜、レイセン、東風谷早苗(第二巻の章を再録)、レミリア・スカーレット、稗田阿求、
メディスン・メランコリー、十六夜咲夜の7人が語り手となる短編と
著者アリス・マーガトロイドの後書きで構成された連作短編小説集です。
この巻に限り、精油符ではなく、とある毒性植物の香りを模した合成香料をふりかけた符がついています。

それぞれ1000円で頒布予定。

内容は前の版の誤字脱字その他もろもろをドバッと修正したもので、内容はほぼ変わっておりません。
ただし、第六巻第二版は、第二巻の東風谷早苗の章を再録してあります。
(そのため、お値段がちょいと上がっております)

なお、東方の原作に儚月抄の続編である東方紺珠伝が夏コミに来るため、月々抄もそれに合わせた構成になっております。
つまり、月々抄の頒布は夏コミでいったん区切りとなります。
この機会を逃すと入手困難になる可能性がありますので、なにとぞご注意ください。

さて、いよいよ、……いよいよ!
東方紺珠伝の発表が迫ってきました。
夏コミ告知ついでに私の最終予想をしておきます。
本命予想はこちら。
4面中ボス レイセン
4面ボス 綿月豊姫、綿月依姫(分岐)
5面ボス 嫦娥
6面ボス 月夜見
Exボス 石長姫 (2面妖怪の山ステージを再利用)

こうなりました。
え? インドはどこ行った? 龍神は?? 女媧や西王母は???
はい。twitterなどで色々と駄弁をくっちゃべっておりましたが、
東方儚月抄ファンとしては、この予想をするしかない!
と踏ん切りがついたのでございます。
ええ、儚月抄ファンが何年待ったと思うのですか。
この、この紺珠伝で出なかったら、上に書いたキャラは永久に出ないんじゃないか。
と考えたら、儚月抄登場キャラ&名前出てきたキャラのフルコース予想で決まりですよ!
兎祭りで結構。ZUN絵のレイセンが見たいよ!

予想で美味しいのが、儚月抄時点で月夜見が月の王だとされていることと、
(つまりLunatic Kingdomのking)
月夜見の語尾がミであり、実は女神なのでは、という設定が使える事。
儚月抄関連で出したい神々といえば、大国主や素戔嗚ですがあれを女性にするのは流石に……
その点、月夜見ならトリッキーながら出せます。
(鈴奈庵絡みで、牛ネタが来たので、少女化した素戔嗚という可能性は捨てきれませんが……)

Xボスに石長姫、も、本命はこれしかないかなと。
初心に立ち返り、2面が妖怪の山であること、富士山の世界遺産登録が決まったこと、
そして鈴奈庵で石長姫に触れられたことからの総合判断です。

深秘録の黒幕や、賢者XXXX、八雲紫が何をやっているのか、等々説明しきれない予想ではありますが、
ま、儚月抄ファンとしてはこの道を行くしかないよね。

というわけで、引き続きtwitterでは上記の本命に対する対抗や大穴予想をしていく予定です。
(やっぱりExボスにインドカレー来そうな気もするんだよな……)
あと一週間、楽しみですね。

では夏コミよろしくお願いします。

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