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最新雑記の記事一覧

2016/08/03

前回の記事で、
「徹底的に観客が持つ『映像的教養』に『ただ乗り』することで、特撮、群衆シーンを削減し、お金と尺を抑えた」
という点を話した。

次はもう一つ、
「観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費用を抑えた」
ということを指摘せねばなるまい。

シン・ゴジラの話題は現在、映画を見た人々の間で、様々に盛り上がっている。
いや、映画の力によって、語らせられていると言うべきか。
映画に限らず、おおよそ文化作品というのは力があれば、接した人間は自発的に語るものである。
それは、体内から噴出する得体のしれない欲望であって、ゴジラが吐く炎のようなものだ。
誰か受け手がいるかどうかは関係がない。

そして、そういった力を引き出すことにかけて、シン・ゴジラは凄いのだ。

例えば、「ゴジラの尻尾から出てくる人型の謎」。
あれはあからさまにエヴァファン層へ向けての盛り上がりポイントであって、
他の層、例えばゴジラファン層へ向けたものではない。
また、大昔のモノラル音源のBGMを使ったのは、現代のSF好きや東日本の震災シーンに響く層向けではなく、ゴジラファン向け。
あるいは、政治家達がうじゃうじゃ出てくる前半は、震災後のゴジラがどう描かれるか気にする社会的な視野を持つ層には大受けだろう。
凡庸な映画は、「感動ポイント」を物語のどこかへ設定したら、そのための伏線を張り、キャラクターを動かして盛り上げ、
観客に(結末は予想できたとしても)どう感動ポイントへ到達するんだろうか、とドキドキさせる、そういう作りになっている。
あるいはもっとマシな映画でも、複数の異なった層へ盛り上がりポイントを設定できる、というのはなかなか難しい。
「THE 有頂天ホテル」のような群像劇でも、観客の嗜好によって大幅に盛り上がるポイントが異なるというのはないだろうと思う。

しかし、シン・ゴジラは、人によってかなり異なるだろう。
ゴジラの破壊映像やゴジラとの戦いの描写に対する評価ですら分かれる。
・最初に上陸したゴジラは恐くて最高だったが、その後のゴジラは足が遅くていまいち
という人はいただろうし
(ジュラシックパークのような生物の凶暴さが見たい人はこうかも)
・中盤のゴジラがレーザーでステルス爆撃機を撃ち落とし、東京の高層ビル群を焼き切ったあたりが頂点、最終決戦は陳腐でがっかり
と思うかもしれないし
(最新の映像美でSF戦闘シーンが見たい人はこうかも)
最終決戦こそがこの映画を傑作にした! という人もいるだろう。
しかもそれは二つに分かれるだろう。
・原発事故のオマージュとして素晴らしい。注水ホースのような凝固剤注入車から凍土壁作戦のような滑稽さまで完璧に描いた!
と、原発事故後の映画、という視点で評価する人と
・歴代ゴジラおよび怪獣によって常に破壊されてきた、「高層建築」「化学施設」「鉄道車両」がゴジラを倒すところにカタルシスを覚えた!
というところに(無意識にしても)、ゴジラシリーズの総括的決戦の美を感じる人とに。
(「無人在来線爆弾」が物凄い絵を生み出したのは、シリーズで電車は怪獣に破壊されるだけの弱い乗り物に過ぎなかったからだ)
ゴジラの描写だけでも、おそらく簡単に評価は分かれる。

これは、もちろん意図的に仕掛けたのだろう。
映画の中のさまざまなシーンが、観客のそれぞれの層に特異的に響くようになっている。
すると、同じ映画を見ながら、他の観客と盛り上がるポイントがずれまくることになる。
こうなると、人は何か言いたくなるだろう。
(人は、他人が自分と同じ考えを述べるとみると、代弁してくれた気になって自分があえて言わなくてもいいだろうと思う)
鑑賞後のネット上の評判はこうして多様に話題になる。
あるいは、複数の層への感受性を兼ね備えた人は、複数ポイントで別々の盛り上がり体験をするために、
「傑作。とにかく見てない人は見に行け」とまず言うかもしれない。
こうした、観客(これはもちろん、日本人一般ではなく、あくまで「シン・ゴジラを見に行きそうな人々」)へ様々な層に響く仕掛けが、
シン・ゴジラの特徴なのだ。

ある層は、小池元防衛大臣や甘利元大臣に似ていたキャラクターがいた、とか、
防衛大臣を女性にしたことに絡め「ゴジラ対ビオランテ」の女性官房長官との類似を指摘したり、
主人公の矢口のモデルは小泉進次郎なのか(宣伝の髪型は結構似ている)、
震災後の原発担当大臣だった細野豪志なのか、とか話題にするかもしれない。
似ているがちょっと違う別の層は、現実の安保法制や政治状況と絡めて語り出すかもしれない。

ある層は、過去のゴジラのシーンや、岡本喜八の映画と比べるだろうし、
グローリー丸が、栄光丸のオマージュだとか、ゴジラが進化して空を飛ぶかもというのはスペースゴジラを思わせるとか、
話題にするだろう。当然、核兵器を巡るやりとりで84年版ゴジラも話題に出るだろう。
似ているがちょっと違う別の層は、DAICON FILMの「八岐之大蛇の逆襲」に「八塩折」が出ていることを話題にしたり、
ゴジラの攻撃がイデオンの射撃シーンに似ていると言うだろうし、
また冒頭で死んでいる重要人物の話でパトレイバーとの類似を指摘するだろう。

ある層は、新元素がニホニウムを思わせたり、最終決戦でゴジラを苦しめた東京駅そばの超高層ビルが2027年完成予定だと指摘するだろうし、
作中で出てくるパソコンが、アップルだったりパナソニックだったり細かい、と指摘するかもしれない。
そして、作中の自衛隊や米軍の装備について、熱く語ってくれるかもしれない。
似ているがちょっと違う別の層は、攻撃ヘリや10式戦車の弾が効かないゴジラの表皮は何で出来ているのか語ってくれるだろう。
あるいは、核攻撃があったらどうなっていたか、議論になるかもしれない。

ある層は、いかに原発事故がゴジラ映画を変えてしまったかを東京の空襲や第五福竜丸と原発事故を比較して語るかもしれないし、
初代ゴジラの芹沢博士の英雄的な死と、チームの主要人物が誰も死なずにゴジラを止めたシン・ゴジラを比較するかもしれない。
あるいは、初代ゴジラの女声合唱と、シン・ゴジラの矢口の演説を比べるかもしれない。
似ているがちょっと違う別の層は、海外のゴジラやSF洋画と、いかに日本のゴジラが違うかを説明しようとするかもしれない。

ある層は、ゴジラがいかにエヴァっぽいかを語り、
似ているがちょっと違う別の層は、ゴジラの尻尾から人型が出てくる謎で盛り上がるだろう。

ネットでざっと見て、目に付く感想は、他にもありそうだが、これぐらい、語れてしまうポイントの多い映画だ。
(もちろん、東京都民や鎌倉市民らは特典として舞台を語るだろうし、次回作の予想を語ってもいいが、これはどの映画でも同じだだろう)
例えば、石原さとみの演技は浮きまくっていたか、あれもどこかの層にウケているのかもしれない。
いかに作り手が、観客に語らせたくて語らせたくて語らせたくて、たまらないか、そういう映画なのだ。

そして、重要なことは、これら多様な層が盛り上がりそうなポイントが、映画のどこか一つ(たいていは終盤のクライマックス)に
集中しているのではなく、映画の最初から最後まで、満遍なく投下されていることだ。
政治的な興味が高い層と、SF好きの層が盛り上がるポイントはうまくずれているし、
エヴァ好きとゴジラ好きが反応するシーンも上手くずらされている。
エヴァっぽいBGMはゴジラの登場シーンではまず使われないし、
ゴジラの尻尾から人型が出てくるという、エヴァファンが話題にしそうな謎は、ゴジラが倒された後に提示される。

こうして、上手い具合に盛り上がりポイントが観客の層ごとにずらされているのだ。
それが、観劇後の人々の話題の多様性を生み出しているのではないだろうか。

一応言っておくと、ネット上のこのような熱狂は、意外とあっという間に冷めてしまうかもしれない。
なにしろ、この映画には恋愛も性的要素もないので、そういった想像、妄想の余地がない。
美少女もいなければ、美人女優とイケメン男優との恋愛どころか、主要人物は家族すら一切登場しない。
もちろん、一般市民が一切活躍しない映画なので、「もし自分が主人公だったら」というような空想もしにくい。
そして怪獣好きのはずの子ども、特に小学校低学年には、この映画は色々と厳しいだろう。
何しろ、小学校低学年の子どもたちは、前回述べた「ゴジラ」「エヴァ」「東日本大震災」という三つの映像的教養を持ってない可能性が高いから。
つまり、シン・ゴジラという映画は、多様な層が反応するシーンやネタを次々に繋げることに特化した結果、
人間ドラマの部分をごっそり切り落とした。
あるいは、そういう人間ドラマは「東日本大震災」という観客が共通して持ってるはずの映像的教養で補ってね、ということだ。
シン・ゴジラと同じくSF映画のシリーズものである「スターウォーズ/フォースの覚醒」(Epsode7)も
いくぶんは多様な話題性を持っていたが、人間ドラマをそれなりにやったために、
観客の多様な層に向けて様々なネタを提供して話題性を作り出すということにかけては、シン・ゴジラに遠く及ばなかった。

もちろん、配役の役者自身の話題性や、テレビ番組の宣伝などの効果もないため、そういった「芸能人記事」的な話題もシン・ゴジラにはない。
芸能業界方向での話題作りには、それなりのお金がかかるのだ。

こういう、いくつかの大きな弱点があるために、シン・ゴジラの口コミ的盛り上がりがどこまで持続するかは未知数だ。

しかし、現状では実にうまく、盛り上がっている。
少なくとも、見に行った人々は、「ネタバレ前に見に行った方がいい」と言っているし、
上記の「話題の多様性」を保ちつつ、全体としては「全方向に好評」だ。
これは凄いことである。
そして、ほとんど宣伝らしき宣伝をしなかったシン・ゴジラがヒットになれば、
宣伝費を大幅に削減した映画としてのモデルになるかもしれない。

これが、シン・ゴジラの素晴らしい点、つまり「よくできた映画」としての美点その2、
「観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費用を抑えた」
である。

さて、これでシン・ゴジラがどう凄かったのか、おわかりいただけたと思うが、蛇足ながら、尻尾の人型の謎についての解釈もしておこう。
やたらお金だ、尺だ、という話ばかりでは、映画の批評として花がないだろうから。

尻尾の人型はあからさまにエヴァファン向けに投げられた謎解き趣向なので、
やみくもに考えるよりも、庵野秀明的な思考をトレースした方がいい。

すると、牧教授が妻を亡くした、という設定から、ただちに碇ゲンドウに結びつくとともに、
失った娘の遺伝子をバラに移植してビオランテを誕生させた「ゴジラ対ビオランテ」の白神博士とも結びつく。
ここから導きだされるシン・ゴジラの隠された設定は
・牧教授は亡くなった妻の遺伝子を、水棲生物に組み込んでゴジラの幼魚を生み出した。
ここまでは誰でも予想がつくだろう。
問題は、牧教授がどういう生物に妻の遺伝子を組み込んだか、だ。
ここで、私は
・「ミツクリエナガチョウチンアンコウ」がゴジラのベースになった
という解釈を唱えたい。
ミツクリエナガチョウチンアンコウとは、オスがメスの身体に寄生し、徐々に目も消化器官も退化し、
やがて生殖器だけになってメスと一体化する、という実に不思議な魚だ。
牧教授が妻の遺伝子を組み込んだのがミツクリエナガチョウチンアンコウならば、
オスはメスと融合することが出来る。
・東京湾で牧教授はゴジラの幼魚と融合することで、真・ゴジラになり、映画冒頭のシーンになった。
これこそが、牧教授の「好きにした」ということではないか。
そして、妻=ゴジラと融合した牧教授は、身体のほとんどの器官が退化し、生殖器だけになった。
これこそが牧教授が望んだことであり、ミツクリエナガチョウチンアンコウを選んだ理由であった。
(漫画好きなら、弐瓶勉の短編SF漫画に「ポンプ」という作品があったのをイメージしていただければと思う。
庵野秀明が、どこかで弐瓶勉の短編集を読んでいるような発言があればこの説はかなり確実性を増すのだが……)

そう。
・ゴジラの尻尾に見えるものは、超巨大な生殖器となった牧教授その人である
そしてここから、なぜ最初に海上から突き出る「長いもの」を、首相以下登場人物全員が「しっぽだ」と断定したのかがわかる。
作り手である庵野氏は、あれが「牧教授=生殖器」であることを観客に寸分たりとも悟らせたくなかったのではないか。
だから、登場人物を総掛かりにしてミスリーディングを行ったのだ。
そもそも、あのシーンは、象の鼻やら軟体動物の足など、他の解釈もありうるのにいきなり「しっぽだ」は不自然すぎる。
その答えがこれだ。あれはゴジラの尻尾ではなく、(比喩ではない本物の)ゴジラの、そして人間の男性生殖器だったのだ。

・妻と融合して雌雄の性質を兼ね備えたため、無性生殖(に見える生殖)が可能になった。
・口からだけでなく、尻尾(生殖器)の先からもビームを発射できたのは、尻尾(生殖器)の先にも体液などを放出する開口部があったから
・尻尾が生殖器なので、自衛隊は尻尾を集中攻撃するようなことは絵的にないし、ゴジラ側も尻尾で民家をやたらと破壊したりはしない
・尻尾=生殖器の先から、子どもが生まれるが、両親は牧教授とその妻なので、人間の遺伝子がベースになった人型が生まれる。

こうして、尻尾から人型が生まれる謎は、
「ミツクリエナガチョウチンアンコウに妻の遺伝子を組み込んだ牧教授が、その幼魚と融合してゴジラになったから」
ということで、綺麗に解けるのではなかろうか。

以上で長かったが、シン・ゴジラの感想を終えたい。

最後に蛇足だが、東方の話題縛りのブログなのでもう一つ。
東方Projectの作者ZUN氏がシン・ゴジラに満足したのは、きっとライトな鉄ヲタだったからだろうと思っている。
東方緋想天で、八雲紫に廃線「ぶらり廃駅下車の旅」という電車攻撃を繰り出させた人のことだ。
無人在来線爆弾には、大いに喜んだであろうことは想像に難くない。
界隈の一部でPS4版深秘録に、新幹線爆弾や山の手線爆弾が出るかも、と噂されたらしいのも、さもありなん、と言ったところだ。
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2016/08/03

滅多に更新しないブログだが、ゴジラシリーズ最新作の「シン・ゴジラ」を二度鑑賞したので、ちょいと触れてみたいと思う。
このブログは東方Projectの話題縛りなのだが、原作者のZUN氏もシン・ゴジラが面白かったとtwitterでつぶやいていた、
というネタを持って、縛りクリアとしておきたい。

この映画、いかに人々に「語らせたい」と思わせるか、その部分が極めて戦略的だ。
このブログ記事自体、その作り手側の戦略に乗せられているわけだが、まああえて乗ってみようという。

映画というのは、
・ものすごくお金がかかる。
・やりたいことを詰め込むと尺が伸びる。
というものだ。
そして日本の映画産業の現実は
・製作費をかけられないし、費用のかなりの部分は宣伝に使われる。
・映画館の回転のために尺を切り詰めないといけない。
とこうなっている。

ここでシン・ゴジラは実に見事に、予算的、作品時間的な模範を示した。
それは、
・徹底的に観客が持つ「映像的教養」に「ただ乗り」することで、特撮、群衆シーンを削減し、お金と尺を抑えた。
・観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費を抑えた。
この2点である。

過去、28作のゴジラ作品を全て観た人間だが、このような性質を持つ作品はなかった。
あるいは、邦画全体でも無いのではないか、と思う。

○観客が持つ「映像的教養」に「ただ乗り」した。
特撮はお金がかかる。
ミニチュアを破壊するにせよ、CGでやるにせよ、表現する舞台が大がかりであればあるほど必要な資金は増える。
また逃げ惑う群衆を撮影するときのエキストラだって大変だ。
それらをほとんど描かずにすめば、お金も尺も下げられる。
そして、現代の日本で庵野秀明氏がゴジラを作る際、映画館に行きそうな日本人が持つ共通の「映像」
これを「映像的教養」と言いたいが、それが3つあった。
「ゴジラ」「エヴァ」「東日本大震災」である。
ここで、特撮ファンは映像的教養「ゴジラ」を持っているし、
邦画ファン(例えば「日本のいちばん長い日」(67年版)を観ている層)は映像的教養「東日本大震災」を持っているとする。
そして、ほとんどの観客は、上記3つのうち2つの教養はある、と見なせる。

シン・ゴジラは、その3つに徹底的に頼った。
「ゴジラ」はいわずもがなだろう。シリーズものの根幹だからここではあまり触れないが、
ゴジラという物理学・生物学の法則を無視したキャラが存在できるのは、
現代のSFレベルでは「シリーズのお約束だから」としか言えない。
もしシリーズ作品でなければ、なぜゴジラが存在できるのか、煩雑なSF的説明シーンがもっと必要になっただろう。
「エヴァ」については、音楽、台詞回し、一部ゴジラの攻撃、ゴジラが進化していくという設定などだ。
エヴァのそれらに、さらに元ネタがあるかどうかは、この際意味はない。
映像的教養としての「エヴァ」を身につけた観客は、「ヤシオリ」という言葉から
「ヤシオリって、完全にエヴァのヤシマ作戦じゃねーか!」という連想で直結した後は考察がストップしてしまい、
見終わった後にネットで検索し、「あ、ヤシオリってヤマタノオロチを退治するとき飲ませた酒の名前だったのね」
と気づくまでは、まさか他の意味があろうとは夢にも思わないのである。

そして、制作費と尺の切り詰めの削減に最大の威力を発揮したのが、
観客の多くが持っている「東日本大震災」の映像の記憶に、最大限乗っかることであった。
あの震災を当時メディアで見た人は、宮城県の閖上(ゆりあげ)に津波とともに押し寄せる船の映像や、
放射線量を示す地図、そして何より、原発事故に際し、電源停止、ベント、建屋の爆発、住民の避難
等々を巡って右往左往する官邸や政治家の動きを、今でも鮮明に覚えているだろう。
これこそが、シン・ゴジラを「会議だらけ映画」に出来た最大の理由だ。
もしこの映画が2010年に作られていたら、と考えて欲しい。
政治家が延々と会議する特撮映画、あるいは主人公が政治家だというだけで、非難が殺到したかもしれない。

ゴジラを観に来る客は、人々が逃げ惑い、街が破壊されていく様を見たいに違いない……それは正しい。
しかし、「東日本大震災」の映像的教養があるが故に、観客はシン・ゴジラの会議シーンにも好意的にならざるを得ない。
(ごく一部の岡本喜八ファンが別の意味で喜んでくれれば制作者側には望外のヒットだが、
残念ながら多くの観客はそこまで邦画は見ていない)
大人数の役者が政治家役で出てきて、延々と喋る。
それどころか、閣議室で報告をする大臣の後ろから官僚がメモを差し入れるシーンに尺を使う。
これを見て観客は「巨大生物や街が破壊されるのを見るために来たけど、こういう映像もありかも」と思わされてしまう。
あるいは、最終決戦で、主人公たちが放射線防護服で覆われているために、
声がモゴモゴしていて、ちゃんと聞き取れなかったり、
どういう演技をしているのかあまりよくわからなくても、ある種のリアルさとして許容できてしまう。
この時点で相当の金と尺を減らせたわけだが、さらに庵野氏側の仕掛けた罠は用意周到だった。
それは、徐々に観客を作中の国民の目線に落とし込むという離れ業だ。

○観客そのものを作中の国民の地位に落とした術

シン・ゴジラを見た人は、作品世界の一般国民に共感しただろうか?
おそらく共感した人はほとんど居なかったのではないだろうか。
なぜなら、作品世界の(ゴジラによって被害にあう)国民はどんどん存在感が薄れていくからだ。
映画の最初では、ゴジラに対する作品世界の国民とは
「ニコニコ動画風の弾幕コメント」や「twitter風のSNS画像」あるいは
海底トンネルの滑り台のような脱出路を使う女性、一回目の襲撃後に無邪気に登校する女子学生のグループ、などだ。
また、最初に上陸したグロテスクなゴジラが高層マンションを押し倒す際に、逃げ遅れて死ぬ家族も、作品世界の一般国民だろう。
こうした映像を見て、「リアルだ」と感じた人も多いのではないか。

だが、作品中盤からこれら一般人を象徴する映像が次々と消えていく。
ゴジラの進路に従って放射線量が上がるというシーンで、再びtwitterらしき画像が出た後は、
「ニコニコ動画風」や「twitter風」の画像は一切出なくなる。
また、一般国民の姿自体が印象に残る映像も、空撮でデモを行う一般人の群れを捉えたシーンが最後だろう。

映画の終盤で、バスで避難したり、避難先の体育館にいる一般国民の姿は映されても、
そこに、なにがしかの強い映像効果は見いだせない。
さらに、姿だけでなく、国民は数字としてすら姿を現さない。
最初の方で、テレビ報道でゴジラの襲撃による死者の数が(数十人だったか100人だったか)発表されるが、
後半では、一体国民が何人死んだのか、核攻撃があれば避難に遅れた国民が何人死ぬと推定されるのか、
そういった事態をイメージするために必要な数字が一切出なくなる。
出るのは避難に必要な人数が何百万だとかで、被害者の方の具体的なイメージがまったく湧かないようになっているのだ。
最初の方のエレベーターのシーンで、主人公矢口が、先の大戦では希望的観測のために310万人が死んだ、
と具体的な数字を上げていたにも関わらず、最終的に国民が何人死んだのかまったくわからないし、
観客は興味も湧かないように仕向けられたのだ。

つまり、この映画は「ゴジラによって被害にあっている一般国民を、中盤以降、いかに観客に忘れさせるか」
という戦略の上に作られている。
もし、中盤も終盤も、ニコニコ動画風の弾幕やtwitter風のネット反応のような映像が、
ことあるごとに挿入されたらどうだったか。
観客は、映像世界の「襲うゴジラと襲われる国民」を外から冷静に眺める立ち位置に終始しただろう。
そして、「被害に遭う国民」を描くために、膨大な制作費と映像時間(尺)が必要になっただろう。
ビルや橋をゴジラが壊し、逃げ惑う群衆を描けば描くほど、お金と尺がかかるのだ。
ましてや、本来ストーリーの暗示になるはずだった主人公のセリフ通り、
ゴジラによって「死者310万人」などということになれば、その数字を、
実際のイメージとして観客に納得させるために、どれほどお金をかけて映像を作らなければならなかっただろうか!

だがシン・ゴジラでは、「襲われる国民」がいなくなってしまった。
、「襲われる国民」の姿が消失したことで、映画の構図が完全に変容していく。

その変容が完成したのが、主人公矢口が、自衛隊らの決死隊の前での演説である。
あの演説は、作品世界ではこれからゴジラを倒しに向かう決死隊メンバーへ向かって言われているが、
明らかに、言葉が向けられている先は、映画館で映画を見ている観客である。
あの言葉で、観客は、ついに映画世界の一般国民の代わりに、
「映画世界の政府と対面する一般国民」の地位に落とされるのである。
この映画の構図は、冒頭から中盤までの「襲うゴジラと襲われる映画世界の国民」から、
中盤から最後までの「ゴジラを倒しに行く政府関係者と、それを見守る現実世界の国民=映画館の中にいる観客」
へ変わるのだ。
そして、それを成功させたのが、観客が持つ「東日本大震災」の映像的教養なのである。
おそらく、ほとんどの観客にとって、矢口の演説の最後のセリフは、
震災から立ち直ろうとする日本人への、そして「自分たち」へのエールに聞こえただろう。
それこそが、庵野氏が、制作側と配給側が仕掛けた、最大最高のからくりだったと、私は思う。
映画の構図が、「ゴジラを倒しに行く政府関係者と、それを見守る現実世界の国民=映画館の中にいる観客」
になってしまえば、前半の会議だらけのシーンは、構図的正当性を得る。
(「日本のいちばん長い日」を想起して、庵野流石だ! と喜ぶ人間などごく一部である)

もちろん、特撮ファン、ゴジラファンに対しては、庵野氏は短い尺の戦闘シーンだけで満足させる自信があっただろう。
しかし、映画が大成功を収めるためには、コアなファンへの満足だけではいけないのだ。

観客が持つ「東日本大震災」の映像的教養に「ただ乗り」し、
シン・ゴジラは「観客そのもの」を作品世界の国民と、擬似的な立場すり替えを行ったのだ。

この脚本の戦略が大成功を収め、低予算と尺の削減が完成した。
特撮シーンに比べたら、会議だらけの映画がどれほど安上がりか!
シン・ゴジラに影響されて、これからの日本の特撮、SF映画が会議シーンだらけにならないことを祈るばかりだ。

これがシン・ゴジラの見事な点その一
「徹底的に観客が持つ『映像的教養』に『ただ乗り』することで、特撮、群衆シーンを削減し、お金と尺を抑えた」
である。

余談だが、実に興味深いことに、あの矢口の演説の時だけ、音質のクォリティが跳ね上がっているような感覚を覚えた。
スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」で、モノクロ映像の中に赤い服の少女が現れたり、
火の明かりが点いたりするような感覚だ。
あれは単にサラウンドなど音響の調整だけで作り上げた効果なのだろうか?
だとしたら凄いことだ。
他のシーンで人物のセリフの超高音域をカットしたり、音質を落として、
あの主人公の演説だけ、声の音質をよく聞こえるさせようとか、
何かそういう仕掛けを行っていたのか、とつい疑ってしまう。
(ちなみに前半の人物の動きがやたらチラつくのも、CGゴジラの違和感を抑えるために、
わざと実写部分のフレームレートをテレビアニメばりに落としたんじゃないか? などと思ってしまう)
あるいはモノラルの昔の音源を使ったのも、あの主人公のセリフを印象づけるためというのもあったのか、とも。
まったく別々の映画館、一つは後ろ、もう一つは一番前(4DX)で聞いたが、どちらでもあの演説のみ素晴らしく良く聞こえた。
音像定位も良かったし、あれは上手く作ったな、と脱帽である。

なお、庵野秀明監督は、もし自分がウルトラマンを作ったら、という座談会の話題で、
「組織をやりたい。ウルトラマンは最後の1カット出てくるだけでいい」というような趣旨の発言をしている。
今回のシン・ゴジラの戦略が、庵野氏が持っていた元々の嗜好にぴったり一致した、というのも附言しないといけないだろう。

さて、シン・ゴジラの最大の効果は上記だが、もう一つ、見逃せないことがある。
それは、宣伝費を極力抑えるために、何をしたのか、ということだ。

それが「観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費用を抑えた」ということなのだが、
次の記事に譲るとする。

→次の記事「シン・ゴジラという圧倒的な「よくできた映画」2」へ。



C83に参加します

カテゴリ:雑記

2012/11/03

コミックマーケット83(2012年12月29日~31日)の
二日目東カ-14bにてサークル「Abysmalhypogeum」で参加いたします。

既刊の『アリス・マーガトロイド著 月々抄 ~ Impeccable Night.
フランドール・スカーレットの第二次月面戦争 ~ 蝙蝠のクォリア』(第二版)
を1部3000円で頒布するほか、新刊を出す予定です。

また、フランドール・スカーレットの第二次月面戦争(第二版)の正誤表を改訂しました。
正誤表(第二版)
購入された方はご一読ください。

下の写真は、世界で最高のビールと名高い「ウェストフレテレン12』のボックスとフランの第二次月面戦争のツーショット。
呑む時期は未定。
ウェストフレテレン12

2012/08/12

これは2011年11月20日~22日にかけて、長野県大町市八坂を訪れた時の二日目~三日目の旅行記である。
一日目の記事はこちら→旧八坂探訪1

二日目に目指すのはもちろん、大姥が住むと言われる山である。
朝8時に明日香荘を出て、まずは布川峠に向かう途中に鎮座まします高根神社に参る。
八坂2-01高根神社

そして前日と同じように峠道を行き、9時20分登山口に着く。
前日は登山道を途中で右に折れて山姥ノ滝へ向かったが、この日は真っ直ぐ尾根を進む。
深い落葉樹林に囲まれた道は勾配もきつくなく、非常に快適である。
時々脇道に見える美しい紅葉と大きな松の梢が目を楽しませてくれる。

10時40分、登山道途中の左右前山山城跡に着く。ここには三角点(1006m)がある。
長野県の城跡というと曲輪と空堀で構成された山城というイメージだが、
ざっと見たところでは、頂上部の平坦な部分を区切る堀切以外に城跡らしき構造を見ることはできなかった。
ここで予想外の降雪。ちらほらと舞う程度だが、気温がぐっと下がった。

そのまま尾根伝いに進み、11時25分、大姥山山頂(標高1003m)に着く。
ここにはNHKと民放の巨大なアンテナがある。
山頂から西へ降りるルートを見下ろした時のパノラマは雄大だ。

↓山頂からのパノラマ(画像をクリックすると表示されます)
大姥山山頂パノラマ2_3

向こうに見える大きな山は聖山(ひじりやま、標高1447.1m)で、写真ではわからないが手前の大姥山との間に犀川が流れている。


その後は下る一方だが、登りルートとは違い、クサリ場が連続する急勾配である。
こっちから登らなくて良かった。
八坂2-05クサリ場副

11時45分、下山途中に西への道を行き大姥が住み金太郎を育てたという「大穴」なる岩屋に着く。
大姥神社の奥社にもなっていて、雰囲気たっぷりである。

↓大穴の全景
八坂2-06大姥山大穴

↓こちらは天井
八坂2-07大穴天井

岩屋を覆う磐は砂岩で出来ているのか、その下は砂地になっていて獣の足跡もある。
今度は雪ならぬ小雨が降り始めたので、岩屋で雨宿りしながら、
昼飯用に持って来た灰焼きおやきと大町市の名産、黒スズメバチ煎餅を食べる。
美味い。

↓大穴から眺めた風景は、そのまま妖怪が見た風景でもあろう。
八坂2-08大姥山大穴からの景色

12時ちょうどに大穴を出て登山道に戻る。
その後もクサリ場が続き、また巨木が落雷のせいか倒れ臥している場所にも遭遇。
この山には面白い姿の樹木が多く、いかにも妖怪の山といった風情である。

↓登山道をアーチのように覆い絡まる奇妙な樹。
八坂2-09大姥山の樹副

↓巨大な松の木。このような恰幅の良い松が山中あちこちにみられる。(パノラマ合成)
松パノラマ_3


↓二股に分かれた松の根本には風化した石仏らしきものが。
松パノラマ2_3
(パノラマ合成しているため上部が黒ずんで見えますが、実際は下部と同じ色調です)

↓登山道を完全に塞いでいる倒木。跨いでいかないと通れない。
八坂2-10大姥山の倒木副

↓美しい松の根本。
八坂2-11美しい松の根本副

↓こちらは、非常に巨大な倒木。圧倒的な迫力。
倒木パノラマ_4


13時20分に大姥神社の本宮に着く。
八坂2-12大姥神社副
もちろん祭神は大姥神であり、妖怪と神が一体となった信仰を目の当たりにすることができる。
裏の小屋には、祭りで使うという花火の筒が置かれていた。

さらに山を下りながら、大姥が金太郎の産湯に使ったと言われる「産池」を見に行く。
竹林に囲まれた窪地に緑色の小さな池がある。
八坂2-13産池

14時10分に旧八坂村の西の入り口となる、大姥神社の前宮に着く。
前宮の前には国道19号と犀川が流れている。
八坂2-15大姥神社前宮

手前には道祖神も。
八坂2-14道祖神

そして犀川沿いに国道19号を下る。

↓犀川の流れ。ここまで来ると、八坂の山中とは別の世界だ。
八坂2-16犀川

野平中あたりで西に林道を入って、再び明日香荘を目指す。
ちょうど布宮沢の南を走る林道を徒歩で登っていくわけだが、
地図にない細かな分岐が多く迷いやすい。
16時10分に作の平の峠に着いた頃には日没が迫り、
またもや初冬の夜の闇を味わいながら旅館にたどり着いたのだった。

朝から晩まで一日かけて八坂の西部をぐるっと廻ったのだが、深山幽谷を楽しむことが出来た。

3日目は切久保の諏訪社を見に行く。
白馬にも切久保という地名があるが、八坂の切久保の諏訪社は鷹狩山を背に、東の方を向いている。
七曲(ななまがり)という地名もあり、ひょっとすると博麗神社のモデル候補か、と前々から思っていたのである。
実際に行ってみると、鳥居が石段の中央にある。そして写真の通り杜の中の神社である。
本殿の作りも東方の原作で出てくる博麗神社とは異なる。
しかし博麗神社のモデルでもおかしくない雰囲気はある。

八坂2-18切久保諏訪社副

↓八坂切久保諏訪社の本殿。
八坂2-20切久保諏訪社本殿副

↓諏訪社から東を眺める。この神社が博麗神社のモデルということはあるか否か。
八坂2-19切久保諏訪社境内から副

切久保諏訪社の前は本当に開放的だ。天気も良く、山村の美しい景色が味わえる。
↓切久保諏訪社の手前から東側のパノラマ
八坂村パノラマ2_3


さて、信濃大町に出るには、鷹狩山と南鷹狩山の間の峠に行くか、
もう少し南のトンネルを抜けるだが、切久保からは峠を越えるのが近い。
山中にうっすら雪が積もっている中をぐんぐん進みながら振り返ると、八坂の村々が青空の下に見えた。
(パノラマ合成)
八坂村パノラマ_2


↓木立の間の風景。おだやかである。(パノラマ合成)
八坂村パノラマ3_2


峠を抜けて大町の側に出ると、雄大な飛騨山脈の山並みが見えた。
八坂2-22大町の向こうの飛騨山脈


この後、塩の道博物館で古民具などをじっくり見てから、帰路についた。

↓江戸時代の塩問屋をそのまま活かした、民俗好きには非常に楽しめる博物館である。
八坂2-26塩の道博物館


八坂は、「ナチュラル妖怪ヴィレッジ」にふさわしい、陰翳の濃い地であった。

旧八坂探訪1に戻る)

2012/07/31

旧八坂村探訪1 (旧八坂村探訪2

これは2011年11月20日~22日にかけて、長野県大町市八坂を訪れた時の旅行記である。

秋も深まる11月、かねてより行きたいと思っていた八坂に行く余裕が出来た。

長野県でも北よりの場所で、西の高瀬川と東に犀川の流域に挟まれた僻地にあるのが大町市八坂で、
山村留学の発祥地(1969年開始)として知られているが、
名山と呼べるほどの山もなく、他の長野県のいわゆる「日本アルプス」に比べ観光資源に乏しい地域であるようだった。

しかし、東方ファンとしての注目点はそこではない。
この八坂、以前は長野県八坂村だったが2006年1月1日に隣接する大町市に吸収合併され、地図から消えた。
「あの喜多郎が好んで住んでいた」こと、七曲という地名があること、村の入り口にトンネルがあることなどから
某氏のブログ記事で取り上げられた村であることは確実である。
某氏の取り上げ方は、いわゆる「地図から消えた村」伝説、つまり青森県の杉沢村伝説をパロった、
ちょっと誇張表現の多い書き方かもしれないが、
「あの山奥での生活が私に与えたインスピレーションは多大な物だった」と某氏が述べている場所を、
私も体験してみようと思ったのである。
この八坂、「廃村探訪」「湧水探訪」「石仏探訪」などの知られざる名所のようで、「妖怪が登場する民話」も豊富だ。
私は期待と不安を抱きつつ、「信州でも有数の秘境中の秘境」に向かったのだった。

電車で信濃大町まで来た私は、民宿の方の運転する車に乗って八坂の中に入った。
この宿は、当時おそらく八坂唯一の民宿(そして2012年現在は会社倒産で休業中になってしまった)明日香荘である。

八坂は、高低差の激しい峡谷の地だった。
八坂1山々

等高線つきの国土地理院の地図を持っていたとはいえ、実際に来てみないと、景色というのはわからないものだ。
午後になってしまったが、探訪する時間はあると見て私はさっそく探訪先に向かった。山である。

この旧八坂には、大姥山(おおうばやま)という妖怪伝説のある山がある。
大姥と呼ばれる、山姥(やまんば)が山に住んでおり、
長野県安曇野の有明山に住む八面大王と恋仲になって金太郎を産んだというのだ。
金太郎は神奈川県の足柄山の伝説が有名だが、もちろん各地に伝説が残っている。
八面大王も「魏石鬼八面大王」として知られる謎の怪人であり、
八坂の秘境テイストに磨きをかけている。

八坂の中央を通る金熊川沿いを歩くと、狭い田畑の間を小さな吊り橋がかかっている。
ここは蕎麦が名物である他、黍などを特産品にしている。山村ゆえの地味の乏しさが却って趣き深い。
八坂2吊り橋


私は基本的に徒歩で散策するので、布川峠を目指し林道を上る。
途中、林道の向こうに灰色の獣をみつける。
カモシカか、まさかクマじゃないだろうな、などと思いながら対峙すると、獣はしばらく私を睨みつけてからさっと消えた。
八坂3謎の獣

しばらく歩くと、案の定クマ注意の看板が。

布川峠のちょうど上、県道469号から北の尾根沿いに大姥山の登山口がある。
八坂4大姥山登山道

その尾根を伝って、落ち葉を踏んで行くと大きな巌の上に小さな秋葉社がある。
ここは巌の西の山道が切り立った崖になっており、なかなかスリリングである。
八坂5大姥山秋葉社


そのまま軽快に進んだが、時間的にやや厳しいこともあり頂上は明日に回して山腹にある「山姥ノ滝」を目指すことにした。
途中、山道がいくつにも分岐し、廃村に紛れ込んで迷う。
噂には聞いていたが、八坂には廃村(廃棄された集落)が沢山あり、
大姥山にも朽ちた家屋が点在していて、実に雰囲気たっぷりである。
八坂6廃屋

そして山姥ノ滝。沢に入るとさっと視界が開け、実に爽快な滝だ。滝の向こうから天狗が出てきてもおかしくはない。
八坂7山姥ノ滝

この後日暮れ前に宿へ戻るために大急ぎで林道を上るが、ここで道を間違えてまたもや廃村に迷い込んでしまう。
国土地理院の地図を見てどう迷ったのかわかったものの、峠の東に位置するため日没まで時間がなく、戻る余裕はなかった。

↓迷い込んだ廃村付近から見た風景。(パノラマ)
八坂廃村パノラマ_2


日が暮れれば真っ暗になってしまうが、廃村で一夜を明かすことはちょっと御免である。
そこで県道へ戻るために90m近い斜面を登ることを決断し、腐葉土の足を取られながら必死に上った。
結局、日没までに宿に戻ることは出来ず、山村の夜の暗さも堪能したのであった。

温泉も気持ち良くて、私はこの八坂をすっかり気に入ってしまった。

探訪記はその2へ続く)

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