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2016/08/03

滅多に更新しないブログだが、ゴジラシリーズ最新作の「シン・ゴジラ」を二度鑑賞したので、ちょいと触れてみたいと思う。
このブログは東方Projectの話題縛りなのだが、原作者のZUN氏もシン・ゴジラが面白かったとtwitterでつぶやいていた、
というネタを持って、縛りクリアとしておきたい。

この映画、いかに人々に「語らせたい」と思わせるか、その部分が極めて戦略的だ。
このブログ記事自体、その作り手側の戦略に乗せられているわけだが、まああえて乗ってみようという。

映画というのは、
・ものすごくお金がかかる。
・やりたいことを詰め込むと尺が伸びる。
というものだ。
そして日本の映画産業の現実は
・製作費をかけられないし、費用のかなりの部分は宣伝に使われる。
・映画館の回転のために尺を切り詰めないといけない。
とこうなっている。

ここでシン・ゴジラは実に見事に、予算的、作品時間的な模範を示した。
それは、
・徹底的に観客が持つ「映像的教養」に「ただ乗り」することで、特撮、群衆シーンを削減し、お金と尺を抑えた。
・観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費を抑えた。
この2点である。

過去、28作のゴジラ作品を全て観た人間だが、このような性質を持つ作品はなかった。
あるいは、邦画全体でも無いのではないか、と思う。

○観客が持つ「映像的教養」に「ただ乗り」した。
特撮はお金がかかる。
ミニチュアを破壊するにせよ、CGでやるにせよ、表現する舞台が大がかりであればあるほど必要な資金は増える。
また逃げ惑う群衆を撮影するときのエキストラだって大変だ。
それらをほとんど描かずにすめば、お金も尺も下げられる。
そして、現代の日本で庵野秀明氏がゴジラを作る際、映画館に行きそうな日本人が持つ共通の「映像」
これを「映像的教養」と言いたいが、それが3つあった。
「ゴジラ」「エヴァ」「東日本大震災」である。
ここで、特撮ファンは映像的教養「ゴジラ」を持っているし、
邦画ファン(例えば「日本のいちばん長い日」(67年版)を観ている層)は映像的教養「東日本大震災」を持っているとする。
そして、ほとんどの観客は、上記3つのうち2つの教養はある、と見なせる。

シン・ゴジラは、その3つに徹底的に頼った。
「ゴジラ」はいわずもがなだろう。シリーズものの根幹だからここではあまり触れないが、
ゴジラという物理学・生物学の法則を無視したキャラが存在できるのは、
現代のSFレベルでは「シリーズのお約束だから」としか言えない。
もしシリーズ作品でなければ、なぜゴジラが存在できるのか、煩雑なSF的説明シーンがもっと必要になっただろう。
「エヴァ」については、音楽、台詞回し、一部ゴジラの攻撃、ゴジラが進化していくという設定などだ。
エヴァのそれらに、さらに元ネタがあるかどうかは、この際意味はない。
映像的教養としての「エヴァ」を身につけた観客は、「ヤシオリ」という言葉から
「ヤシオリって、完全にエヴァのヤシマ作戦じゃねーか!」という連想で直結した後は考察がストップしてしまい、
見終わった後にネットで検索し、「あ、ヤシオリってヤマタノオロチを退治するとき飲ませた酒の名前だったのね」
と気づくまでは、まさか他の意味があろうとは夢にも思わないのである。

そして、制作費と尺の切り詰めの削減に最大の威力を発揮したのが、
観客の多くが持っている「東日本大震災」の映像の記憶に、最大限乗っかることであった。
あの震災を当時メディアで見た人は、宮城県の閖上(ゆりあげ)に津波とともに押し寄せる船の映像や、
放射線量を示す地図、そして何より、原発事故に際し、電源停止、ベント、建屋の爆発、住民の避難
等々を巡って右往左往する官邸や政治家の動きを、今でも鮮明に覚えているだろう。
これこそが、シン・ゴジラを「会議だらけ映画」に出来た最大の理由だ。
もしこの映画が2010年に作られていたら、と考えて欲しい。
政治家が延々と会議する特撮映画、あるいは主人公が政治家だというだけで、非難が殺到したかもしれない。

ゴジラを観に来る客は、人々が逃げ惑い、街が破壊されていく様を見たいに違いない……それは正しい。
しかし、「東日本大震災」の映像的教養があるが故に、観客はシン・ゴジラの会議シーンにも好意的にならざるを得ない。
(ごく一部の岡本喜八ファンが別の意味で喜んでくれれば制作者側には望外のヒットだが、
残念ながら多くの観客はそこまで邦画は見ていない)
大人数の役者が政治家役で出てきて、延々と喋る。
それどころか、閣議室で報告をする大臣の後ろから官僚がメモを差し入れるシーンに尺を使う。
これを見て観客は「巨大生物や街が破壊されるのを見るために来たけど、こういう映像もありかも」と思わされてしまう。
あるいは、最終決戦で、主人公たちが放射線防護服で覆われているために、
声がモゴモゴしていて、ちゃんと聞き取れなかったり、
どういう演技をしているのかあまりよくわからなくても、ある種のリアルさとして許容できてしまう。
この時点で相当の金と尺を減らせたわけだが、さらに庵野氏側の仕掛けた罠は用意周到だった。
それは、徐々に観客を作中の国民の目線に落とし込むという離れ業だ。

○観客そのものを作中の国民の地位に落とした術

シン・ゴジラを見た人は、作品世界の一般国民に共感しただろうか?
おそらく共感した人はほとんど居なかったのではないだろうか。
なぜなら、作品世界の(ゴジラによって被害にあう)国民はどんどん存在感が薄れていくからだ。
映画の最初では、ゴジラに対する作品世界の国民とは
「ニコニコ動画風の弾幕コメント」や「twitter風のSNS画像」あるいは
海底トンネルの滑り台のような脱出路を使う女性、一回目の襲撃後に無邪気に登校する女子学生のグループ、などだ。
また、最初に上陸したグロテスクなゴジラが高層マンションを押し倒す際に、逃げ遅れて死ぬ家族も、作品世界の一般国民だろう。
こうした映像を見て、「リアルだ」と感じた人も多いのではないか。

だが、作品中盤からこれら一般人を象徴する映像が次々と消えていく。
ゴジラの進路に従って放射線量が上がるというシーンで、再びtwitterらしき画像が出た後は、
「ニコニコ動画風」や「twitter風」の画像は一切出なくなる。
また、一般国民の姿自体が印象に残る映像も、空撮でデモを行う一般人の群れを捉えたシーンが最後だろう。

映画の終盤で、バスで避難したり、避難先の体育館にいる一般国民の姿は映されても、
そこに、なにがしかの強い映像効果は見いだせない。
さらに、姿だけでなく、国民は数字としてすら姿を現さない。
最初の方で、テレビ報道でゴジラの襲撃による死者の数が(数十人だったか100人だったか)発表されるが、
後半では、一体国民が何人死んだのか、核攻撃があれば避難に遅れた国民が何人死ぬと推定されるのか、
そういった事態をイメージするために必要な数字が一切出なくなる。
出るのは避難に必要な人数が何百万だとかで、被害者の方の具体的なイメージがまったく湧かないようになっているのだ。
最初の方のエレベーターのシーンで、主人公矢口が、先の大戦では希望的観測のために310万人が死んだ、
と具体的な数字を上げていたにも関わらず、最終的に国民が何人死んだのかまったくわからないし、
観客は興味も湧かないように仕向けられたのだ。

つまり、この映画は「ゴジラによって被害にあっている一般国民を、中盤以降、いかに観客に忘れさせるか」
という戦略の上に作られている。
もし、中盤も終盤も、ニコニコ動画風の弾幕やtwitter風のネット反応のような映像が、
ことあるごとに挿入されたらどうだったか。
観客は、映像世界の「襲うゴジラと襲われる国民」を外から冷静に眺める立ち位置に終始しただろう。
そして、「被害に遭う国民」を描くために、膨大な制作費と映像時間(尺)が必要になっただろう。
ビルや橋をゴジラが壊し、逃げ惑う群衆を描けば描くほど、お金と尺がかかるのだ。
ましてや、本来ストーリーの暗示になるはずだった主人公のセリフ通り、
ゴジラによって「死者310万人」などということになれば、その数字を、
実際のイメージとして観客に納得させるために、どれほどお金をかけて映像を作らなければならなかっただろうか!

だがシン・ゴジラでは、「襲われる国民」がいなくなってしまった。
、「襲われる国民」の姿が消失したことで、映画の構図が完全に変容していく。

その変容が完成したのが、主人公矢口が、自衛隊らの決死隊の前での演説である。
あの演説は、作品世界ではこれからゴジラを倒しに向かう決死隊メンバーへ向かって言われているが、
明らかに、言葉が向けられている先は、映画館で映画を見ている観客である。
あの言葉で、観客は、ついに映画世界の一般国民の代わりに、
「映画世界の政府と対面する一般国民」の地位に落とされるのである。
この映画の構図は、冒頭から中盤までの「襲うゴジラと襲われる映画世界の国民」から、
中盤から最後までの「ゴジラを倒しに行く政府関係者と、それを見守る現実世界の国民=映画館の中にいる観客」
へ変わるのだ。
そして、それを成功させたのが、観客が持つ「東日本大震災」の映像的教養なのである。
おそらく、ほとんどの観客にとって、矢口の演説の最後のセリフは、
震災から立ち直ろうとする日本人への、そして「自分たち」へのエールに聞こえただろう。
それこそが、庵野氏が、制作側と配給側が仕掛けた、最大最高のからくりだったと、私は思う。
映画の構図が、「ゴジラを倒しに行く政府関係者と、それを見守る現実世界の国民=映画館の中にいる観客」
になってしまえば、前半の会議だらけのシーンは、構図的正当性を得る。
(「日本のいちばん長い日」を想起して、庵野流石だ! と喜ぶ人間などごく一部である)

もちろん、特撮ファン、ゴジラファンに対しては、庵野氏は短い尺の戦闘シーンだけで満足させる自信があっただろう。
しかし、映画が大成功を収めるためには、コアなファンへの満足だけではいけないのだ。

観客が持つ「東日本大震災」の映像的教養に「ただ乗り」し、
シン・ゴジラは「観客そのもの」を作品世界の国民と、擬似的な立場すり替えを行ったのだ。

この脚本の戦略が大成功を収め、低予算と尺の削減が完成した。
特撮シーンに比べたら、会議だらけの映画がどれほど安上がりか!
シン・ゴジラに影響されて、これからの日本の特撮、SF映画が会議シーンだらけにならないことを祈るばかりだ。

これがシン・ゴジラの見事な点その一
「徹底的に観客が持つ『映像的教養』に『ただ乗り』することで、特撮、群衆シーンを削減し、お金と尺を抑えた」
である。

余談だが、実に興味深いことに、あの矢口の演説の時だけ、音質のクォリティが跳ね上がっているような感覚を覚えた。
スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」で、モノクロ映像の中に赤い服の少女が現れたり、
火の明かりが点いたりするような感覚だ。
あれは単にサラウンドなど音響の調整だけで作り上げた効果なのだろうか?
だとしたら凄いことだ。
他のシーンで人物のセリフの超高音域をカットしたり、音質を落として、
あの主人公の演説だけ、声の音質をよく聞こえるさせようとか、
何かそういう仕掛けを行っていたのか、とつい疑ってしまう。
(ちなみに前半の人物の動きがやたらチラつくのも、CGゴジラの違和感を抑えるために、
わざと実写部分のフレームレートをテレビアニメばりに落としたんじゃないか? などと思ってしまう)
あるいはモノラルの昔の音源を使ったのも、あの主人公のセリフを印象づけるためというのもあったのか、とも。
まったく別々の映画館、一つは後ろ、もう一つは一番前(4DX)で聞いたが、どちらでもあの演説のみ素晴らしく良く聞こえた。
音像定位も良かったし、あれは上手く作ったな、と脱帽である。

なお、庵野秀明監督は、もし自分がウルトラマンを作ったら、という座談会の話題で、
「組織をやりたい。ウルトラマンは最後の1カット出てくるだけでいい」というような趣旨の発言をしている。
今回のシン・ゴジラの戦略が、庵野氏が持っていた元々の嗜好にぴったり一致した、というのも附言しないといけないだろう。

さて、シン・ゴジラの最大の効果は上記だが、もう一つ、見逃せないことがある。
それは、宣伝費を極力抑えるために、何をしたのか、ということだ。

それが「観客の層ごとに盛り上がりシーンをずらすことで、多様な話題性を確保し、宣伝費用を抑えた」ということなのだが、
次の記事に譲るとする。

→次の記事「シン・ゴジラという圧倒的な「よくできた映画」2」へ。



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 Comments

  • Name:地底に堕ちた妖怪さん
  • その2も含め、なるほどと頷きながら拝見しました。
    「エヴァエヴァ言ってる奴はそれしか知らねーのかよ!」といちいち憤慨してた自分がちと恥ずかしい。
    インタビュー等でも「庵野監督は全ての反応を承知してやっている」という主旨の話題がありましたが…自分含めまんまと嵌ってるということでしょうか。

    矢口の演説のシーン、普通の映画であれば
    「演説を聞きながら決意を新たにする隊員たちの顔」から「威勢の良い敬礼で締め」というところでしょうが、
    矢口のアップの他は遠景と隊員の装備が映るのみ。
    いわゆるお約束描写を排除してる作品ではありますが、そのような意図も含めて演出されていると考えると、より面白いですね。

    なにはともあれ、この映画をリアムタイムで見れたことに感謝。
  • 2016/08/04 17:16 | URL 

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